サイト管理者の発言


*市長汚職事件に関して「facebook」上に発言したもの。

番号 年月日  標   題
 49    
 48 H31.01.13 未だ「革新的職員」登場せず 
 47 H31.01.08 深甚なる敬意 
 46 H30.12.30 行政の透明性 
 45 H30.12.23 汚職事件後の「パブリックコメント」 
 44 H30.12.21 忠臣と佞臣 
 43  H30.12.09 孟子、(前)伊東市長を撃つ
 42 H30.12.05 「孟子」に学ぶ 
 41 H30.11.30 切腹問答 
 40  H30.11.27 老人の戯言か 
 39   H30.11.23 新たな市民の信頼回復に邁進せよ 
 38  H30.11.16 名誉を剥奪せよ 
 37 H30.11.10 政党の矜持 
 36 H30.10.28 幕府の役人と伊東市の役人 
 35 H30.10.22 世間の相場 
 34 H30.10.14 「市長汚職防止条例」を却下す 
 33  H30.10.01 倫理条例ではない。汚職防止条例だ。 
 32  H30.09.25 構造改革不可論
 31 H30.09.21 スクラップブックの発見と市長汚職事件 
 30 H30.09.12 佃前市長のヒアリングはもう済んだか 
 29   H30.09.06 組織の矜持 
 28  H30.09.04 「市長汚職防止条例」と「市長政治倫理条例」 
 27  H30.09.02 市長汚職事件と市長等倫理条例(案)のパブコメ 
 26 H30.08.31 赤貧の中、襤褸をまといて歩く人のあり 
 25 H30.08.25 記録がないならヒアリングしてレポートを公表せよ 
 24  H30.08.01  「6万9千人の市民と共にあり」
 23 H30.07.27 決起の報道
 22 H30.07.27 汚職事件の関心遠のくを感じて 
21 H30.07.23 老人の戯言というなかれ 
 20 H30.07.17 「驚き・残念」と「怒り・憤り」 
19  H30.07.16 凡夫の検証委員会 
18  H30.07.14 映画「空とぶタイヤ」と伊東市の政治状況 
17 H30.07.09 義理が廃れりゃこの世は闇よ 
16  H30.07.08 勝手に参考人 
15 H30.07.08 市長と事業者の関わりにも現れる伊東市の体質
14 H30.07.04 遠のいたか汚職事件の興味 
13 H30.06.29 失点しているのになぜ攻めない 
12 H30.06.28 汚職事件後の「議会の検閲権」 
11 H30.06.25 シンギュラーポイントと汚職事件 
 10  H30.06.23 空耳か「三文芝居はやめろ」の声
 9  H30.06.20 病重くとも幕舎から出でよ「諸葛亮孔明」 
 8  H30.06.19 「土地取引の検証」と「再発防止マニュアルの策定」 
 7  H30.06.19 市議会の名誉挽回とは
 6  H30.06.18 腹のくくり方
 5   H30.06.17 佃前伊東市長の収賄罪逮捕に思う
 4  H30.06.15 新聞の市長コメントに思う 
 3  H30.06.14 任務の続き 
 2  H300.6.14 組織防衛と市長
1  H30.06.14 前伊東市長1000万円収賄の新聞記事 



48.未だ「革新的職員」登場せず

 古今東西、幾度となく政治の革新が行われてきた。これまでの常識、習慣、しきたりを一挙に変更し、それ故抵抗にもあうだろうから、大層なエネルギーを使うことになる。そのエネルギーが蓄積されていなければ、あるいは平行してエネルギーが生み出されなければ革新など起こりようもない。先覚者の一人や二人がいたところで、それだけでは如何ともし難い。しかも、必ずしも成功するとは限らない。

 革新の引き金が引かれるには色んな場合がある。一つには、とんでもない事件あるいは状況が起きる場合がある。その事件なり状況がこれまでの常識、習慣、しきたりでは対処できないと悟った時、それを契機としてに革新に至る。

 伊東市では、(前)市長が汚職事件で捕まって半年が経過する。とんでもない事件だと思うのだが、未だ革新の引き金が引かれた様子はない。これは一個人の一過性の事件だったのだろうかと思ってしまう。現市長は、この事件の後、市長の政治倫理条例を制定したり、業務の見直しをしているというが、まさに「見直し」であって、これまでの常識、習慣、しきたりは温存される。「革新」とは次元を異にする。

 事件後に愚輩が接した市職員をみれば、仕事の仕方はこれまでと同じ感覚であり、意識は何も変わっていないことがわかる。愚輩が接したのは極わずかの職員に過ぎないが、押して知るべしと思われてしまう。恐らく愚輩にそう思われるだろうということすら意識にはないのであろう。

「革新官僚」という言葉がある。昭和のはじめのことのことだ。この言葉は歴史的な意味を持つので一般論としては使いづらいが、伊東市には、「革新的職員」は居ないのであろうか。たかだか数百人の組織である。何とでもなるだろうにと思う。「革新的職員」が表に出てくる場面だと思うのだが。

 昨年の12月議会で、生え抜きの副市長は、(前)市長汚職事件の責任を問う議員の質問に答弁して、「切腹」という言葉を自身も口にしてその覚悟のほど吐露した。切腹するのを待てと言うのは、武士の情けにはならぬが、その覚悟を以て「革新的職員」の育成に力を注がれよと助言するのは益無きにしもあらずか。




47.「深甚なる敬意

 平成30年のFacebookに投稿した「愚想録」は168項目を数えた。年が明けたら「烏川愚想録」としてすぐに印刷発行(自家製本)できるようにその都度編集していたのだが、暮れにパソコンが故障して、デスクトップに保存してあった編集データが失われてしまった。編集し直しているがこれが時間がかかる。

 校正のためにはじめから読み直しているのだが、168項目中、46項目が佃(前)伊東市長汚職事件に関わる内容である。愚輩がこの事件を伊東市政上極めて重要だと考えている度合いが知れようというものである。

 市のホームペ-ジに掲載されている小野市長の年頭所感を見たが、汚職事件については一言も触れていない。もう済んだことだというのだろうか。重要な事件という認識はないのであろうか。ホームページには、市長選に当選した直後の平成29年6月議会における市長所信表明も掲載されている。長くもない所信表明中、数行を費やして佃(前)市長について賛辞を呈している。

曰く。「その優れた政治的センスをいかんなく発揮された功績は極めて大きなものであり、深甚なる敬意を表すものであります。」等々。この年頭所感と所信表明の対比はおもしろい。当選直後の所信表明はともかく、愚輩の政治的センスでは、今年の年頭所感でこれを打ち消しておけばいいのになあと考える。一度発した言葉は取り消しはできないが、状況が変われば言葉を被せていくらでも打ち消しや修正はできる。それも政治の内なのになあと考える。

ホームページには、佃(前)市長逮捕後の市長コメントも掲載されているが、型どおりのものであり、ほとんど中身はない。



46.行政の透明性


  この6月に捕まった佃(前)伊東市長の汚職事件以後、小野伊東市長はことあるごとに行政の透明性が大事だという。過日の地元紙にも、市長与党とされる政党が来年度予算編成の要望書と共に行政の透明性を求めたのに対して、市長もその通りだと言ったという趣旨の記事が掲載された。全くもってその通りである。

  しかし、行政の透明性が大事だということは、今に始まったことではない。以前から言われ続けていることである。 (前)市長は、行政を不透明にして汚職事件を起こしたのであるから批判して言うべき言葉がなかなか見つからない。批判されるのは当然の上に当然である。では、市役所の職員はどうか。少なくとも、この汚職事件発覚以後、小野市長が大事だという如く行政事務に透明性が増したであろうか。一層そのことに注意を払っているだろうか。

 12月のはじめ、ある「周知の埋蔵文化財包蔵地」の範囲内にあると思われる場所で土木工事をしているのを目撃したので、名前を名乗って教育委員会に通報した。教育委員会はすぐに現場を確認するとの返事だった。工事業者あるいは事業者にどういう対処をしたか、現場確認が終わったら通報者である愚輩に連絡をしてほしいことも付け加えた。

何日過ぎても何の連絡もないので、その時の記録を情報公開請求した。しかし、公開された情報には、愚輩が通報した記録もその通報によって動いた記録もなかった。

  代わりに、あろうことか、11月30日に遡って事業者が所定の手続き書類を提出したことになっていた。「周知の埋蔵文化財包蔵地」内での土木工事は着手60日前までに届けを出さなければならないことになっている。書類だけみれば事業者に落ち度はないことになる。愚輩の通報は一体何だったのかということになる。

  情報公開を受けるときに、担当者からこの間の事情の説明があった。担当者は、事業者には厳重に注意したというが、注意したその記録もつくられていない。何のことはない、結局のところ、行政自らが行政上の手続きの抜け道を丁寧に教え指導していたのである。また、過去に掘削した場所を再掘削していたので実害はないと説明する。しかしそれが大きな誤りであることに気がついている様子はない。事前に届けを出させることによって、そういうことも含めてチェックできるのである。そのための事前の届けである。

  このことは、一般市民がそうとは知らずに日常生活のために穴を掘ってしまったという類いの話ではない。この事業者は、この「周知の内蔵文化財包蔵地」内でビジネスをするについて、事前にその扱いに関して教育委員会に確認しに来ているという。そういう中での無届け土木工事である。手続きを知らなかったということはない。客観的にみれば、事業者の尻拭いに行政が協力しているということになる。恐らく教育委員会は、これまでも同じようにしてきたのであろう。どこに行政の透明性があるのだろうかということになる。

  担当者に行政の透明性という意識がないことは明らかである。しかし、担当者を責めるのは酷かもしれない。今まで通りのやり方をしただけのことであろう。役付の肩書きを持つ職員が同席していたので、その職員には、市長汚職事件の教訓を説いて、「記録は後からでもつくれるので、今回の経緯を記録に残しておくべきであろう」と助言しておいた。

  しかし、感度は鈍かった。またいやなことを言うと思われたかも知れない。老人の助言は概して小言と思われ易い。任意ではあるが、教育長宛の情報公開請求書には、請求の目的を記載する欄がある。「適正な行政事務が行われていたか否かの確認のため」と記載した。文化財保護行政の長たる教育長は、その意味をわかってもらえただろうか。


45.汚職事件後の「パブリックコメント」


 現在「第3次伊東市観光基本計画(原案)」のパブリックコメントを募集している。この原案によれば、「観光振興のあり方を明示し、観光を核とした関連産業の振興を図ることを目的とする」とある。今後この計画に基づいて具体的な施策を行うのだが、基幹産業として、それには多くの予算が使われる。

 この計画は、(前)伊東市長が汚職で捕まってから、パブリックコメントにかけられる事案であることから、これまでと異なる視点からも検証されなければならない。端的に言えば、市長のお友達や支持者などが有形無形の不公正な利益を得ることにつながる記述がありはしないか、市長が政務を執行するに当たって、公正、公平な記述となっているかということである。この観光基本計画に、例示であっても具体的な事業名などが記載されている場合は、その事業がどういう人と関係しているかなど特に注意をしなければならない。

 伊東市では、(前)市長の現職時の汚職を契機として、この12月議会で政治倫理条例が成立した。市長の責務に「その市政を執行する権能が市民の信託によるものであることを深く自覚し、自ら進んでその高潔性を明らかにし、誠実に職務を執行しなければならない」とある。市長が百万遍これを唱えることも大事ではあるが、市民が観光基本計画に不正、不公平の萌芽となるような記述があるかないかを考察することは大事である。(前)市長の汚職事件をどこかにおいてしまって、以前と同じように、さあパブリックコメントでご意見をお聞かせくださいとなってしまってはあまりにも緊張感がない。

 さて、パブリックコメントを募集するに当たって、市民に示された資料は、ホームページに掲載された全47頁の「第3次伊東市観光基本計画(原案)」があるのみで、特段の補足、説明資料はない。例えば、第2次伊東市観光基本計画から何がどういう理由で変わったのかという資料はない。第3次基本計画(原案)の中にそれらしき記述はあるが、愚輩などには、具体性を伴ってすぐには読み解けない。第2次伊東市観光基本計画は探せばホームページに記載されているのだが、第2次と第3次の比較表は意見を言いたい市民は自分でつくれということなのだろう。また、この第3次原案をつくる過程でどんな論議があったのかその記録もわからない。意見を言いたい市民は情報公開請求しろということなのだろう。

 「伊東市パブリックコメント手続き実施要綱」には、「計画等の案を公表するときは、作成した趣旨、目的、背景等当該計画等の案を理解するために必要な資料を併せて公表するよう努めるものとする。」とある。実際にはそうは努めていないのである。今に始まったことではない。何度かこれまでにパブリックコメントの中で同じことを言ってきたのだが一向に改善される気配はない。

 (前)市長汚職事件は、政務の不透明性が大きな問題の一つである。これを真に改善しなければならない。平成24年にできた「伊東市パブリックコメント手続き実施要綱」には、その目的の中に、「市の政策形成過程における透明性及び公正性の向上を図るとともに、市民等に対する説明責任を果たす」とある。職員はこれを文字面として見るのではなく、真に理解しなければならない。汚職事件と職員の意識には同根となる部分があったかも知れないということに思い至らなければならない。

 この12月議会で副市長は、(前)市長汚職事件の責任は幹部職員にもあるといった。あたかもそれ以外の職員には責任がないようにもとれる。直接的にはそうかもしれない。しかし、汚職事件後の「第3次観光基本計画(原案)」のパブリックコメントの募集の仕方を見ると、まだ事件の重大性がわかっていないのではないかと思えてしまう。

 公表した原案にすべてが記載されている。お前に理解する能力がないだけだと言われてしまえば、へっへっーと恐れ入る他はない。



44.忠臣と佞臣

殷(いん)の紂王(ちゅうおう)は、後年妲己(だっき)に溺れ政務をおろそかにし、諫言(かんげん)する者を寄せ付けず、それでも諫言する忠臣は次々に殺したという。為に紂王の周りから忠臣は姿を消し、媚びを売り紂王に取り入ろうとする佞臣(ねいしん)のみがはびこり、国は乱れ、民心は離れ、やがて紂王は周の武王に討伐され、数百年続いた殷朝はついに滅びたという。

さて、(前)市長が現職時代の汚職で捕まった伊東市を殷に、捕まったその市長を紂王に比べてみるのはスケールが違いすぎて参考にもならぬが、「忠臣」「佞臣」という観点から見てみるのは興味深い。

市の幹部が市長の犯罪あるいは不適切な行為について諫言したという話を愚輩は寡聞にして知らない。だから、諫言したが為に降格されたという話も知らない。それ以前に、(前)市長の下では働けぬとして辞めていった職員はいたかも知れない。(前)市長の周りの幹部級職員の中に忠臣は居なかったのであろうか。程度の差はあれ、佞臣だけだったのであろうか。

宮仕えの身で、殿ご乱心なさいますな、このままでは一国滅びますぞと直言、諫言するのは最大限の勇気がいる。若き信長に死を以て諫言した平手政秀の例を出すまでもなく、諫言との引き換えは、処刑か自刃であると相場は決まっている。それ程の忠臣を望むのは無理であろうか。(どこにもそんなことは書いていないが)市長から特別に任命を受け、市長を補佐する副市長の任務には諫言も含まれる。それほどの副市長を望むのは無理なことであろうか。

市職員でなくとも、例えば議員の中に、(前)市長に諫言できる側近と言われる人は付いて居なかったのであろうか。誰であったのか愚輩の耳には聞こえてこない。この場合、子分は何人居てもあてにはならない。

権力を握る者は概して増長慢となり易い。そうであるが故に、古来人物であって権力の座につこうとする者は、よく聖賢の書を読み己を戒めるのである。また、真の忠臣を近くに置き、佞臣は遠ざけるのである。この理(ことわり)がわからず、自ら佞臣をつくり近くにおいてしまっては、政務の基本がわかっていないということになる。


43.孟子、(前)伊東市長を撃つ


 孟子曰く。「為さざる有り、而して後、為す有り」と。何をしてはいけないかということがまずあって、その後に何をすべきかということである。捉えようによっては、人の世を生きて行くには過酷である。

 例えば、会社に勤めていれば、好悪は別にして、自分の信条としてそれはやりたくないと思うことがあっても、私にはできませんと言ってしまっては会社を辞めなければならない場合もある。信条の重さと天秤にかけて、まあこのくらいは仕方がないと納得する理由を自分で見つけなければならないこともある。当然だが、それでは会社を辞めさせていただきますということもある。

 特に、法律により人を支配する大きな権力、権限を与えられ、それ故無形の影響力まで行使できる政治家は、このことを拳々服膺しなければならない。普通の会社員などとは比較にならぬほど過酷である。為すべき信条をもつ政治家は多々あれども、為さざるべき信条はを持つ政治家はどれほど居るだろうか。

 (前)伊東市長は、人に語らずとも、どういう信条をもっていたのだろうか。為さざるべき信条を持っていたのだろうか。それを持たねば、任務を果たすことができないというに。

 二千年の彼方から撃った弾丸は、伊東市を貫くか。


42.孟子」に学ぶ

 君子で在りたいと思うのは君子ではないからに他ならない。振り返れば、善事だけを積み重ねてきた訳ではない。それに大小の区別があるかどうかは知らぬが、凡夫が思ういくつもの悪事も行ってきたのである。

 凡夫の拙い経験から、世の中というもの、人というものを推し量ることはできるが、当たることもあれば外れることもある。貴殿は人の悪事を批判できるほどに君子であるかと問われれば、ふっふっと笑うしかない。善悪同時に存するのは凡夫の凡夫たる所以である。

 しかし、悪事の中にも、こえてはならない悪事の規範というものがあるはずである。そうでなければ、世の中は無秩序が拡大し続けることになる。自分の悪事を弁護する訳ではないのだが、そんな風に考えている。

 ある「孟子」関連の本を読んでいると、こんなことが書いてあった。愚輩流に解釈すれば、「賄賂にも道徳がある。取ったものはみんなに分けて人のために使え。送った者が助かるようにせよ。政治家の無能、無責任はまだなんとかなる。賄賂の道徳がなくなれば、後戻りは難しい」と。

 (前)伊東市長の汚職事件は、取った金は黙って自分のお懐に入れるし、送った側は、元々賄賂を送るつもりはなかったのだから、何が助かったということでもない。時代は違うかも知れぬが、「賄賂の道徳」を完全に逸脱している。

 世の中には善事も悪事もある。悪事の中にも規範、道徳がある。これを逸脱してはいけない。逸脱したことをそんなものだと思ってはならない。



41.切腹問答

 今日の伊東市議会一般質問で、一人の議員のおもしろい(興味深いと言うこと)問答があった。「切腹問答」だ。

 質問に立った議員は、(前)市長の汚職事件に関して、幹部級職員の責任を問う質問で、減給、降格などのペナルティを自らに課す考えを問うて、「切腹」する気はないのかと問いかけた。これに当時の部長級幹部であった現副市長は、責任はあると思っている、「切腹」することも含めて身の処し方は常に頭の中にあると言う趣旨の答弁をした。例え話しかも知れないが、質問も答弁も穏当ではない。

 しかし、質問する方も答える方もある覚悟があったと見た。薩摩の田中新兵衛は姉小路公知卿暗殺の嫌疑をかけられ捕縛された際、現場にあった証拠の刀を見せられると、言い訳をせずにすかさずその場で切腹して果てた。姉小路卿暗殺の真相は未だにわからないという。田中新兵衛を例に出すまでもなく、古来本朝では、責任を取るに自刃して果てた者は少なくない。

 質問議員は打ち首を迫るのではなく、「切腹」を問いかけた。責任の取り方は幾通りもあるが、副市長は答弁で自らも「切腹」という言葉を使った。副市長は、(前)市長汚職事件の始末が済めば、恐らく責任を取って辞職するだろうと見た。

 考えすぎだと言われてしまえばそれまでだが、確かに副市長は「切腹」することも含めて身の処し方を考えると言った。武士が公式の場で「切腹」を口にすれば、取るべき行動は一つしかない。極めて重要な「切腹問答」であった。

 この問答は、本当はたとえ話しではなかったのである。


40.老人の戯言か

 当人にそのそのつもりがあるかないかは別に置くとして、今から一億の日本国の宰相になる可能性は皆無に近い。七万に満たないこのまちの宰相になる可能性はと言えば、まあなくもない。そうだからというわけではないのだが、「東洋宰相学」(安岡正篤著)を読んでいる。全く整理がされていない烏川文庫のどこかにはあると思うのだが、探すより古書を買った方が早い。注文すれば一日で手元に届く。


 そのある一節を愚輩なりに解釈すればこうなる。孔子は、人が憎むべきものが五つあるという。その内の一つは、悪いことをしながら人々に恩恵が及んでいるということだという。そういう人間のところには徒党ができ、言論は邪心をうまく飾って、人々を惑わし、勢力は正しいものを圧迫する。そういう者は小人の雄なるものだという。孔子は、ある国の司法長官であったとき、こうした地方のボス的存在の征伐を断行したという。


 現職時の汚職事件で捕まった(前)伊東市長のことを考えると、今の伊東市の政治状況を重ね合わせて遜色がないではないかと思えてしまう。小人の雄の元には、即ち地方のボスのまわりには恩恵を求めて人が集まるものである。孔子の時代と違って、現代では民衆の入れ札によって宰相が選ばれることを考えると、孔子が人が憎むべきものとして挙げた項目の重みが一層明らかになる。二千数百年も前に現代の政治の有り様を喝破していたのかも知れない。


 伊東(前)市長汚職事件は起こってしまったことで、今さら後戻りはできない。仕方がない。しかしこれを学ばざれば、人をかえてまた同じようなことを繰り返す。小人の雄はまた現れる。歴史はそう教えている。愚輩如き一介の老人であれば、学ぼうがそうでなかろうが世の中に何の影響も及ぼさぬが、要路の人、これから要路に立とうかという人はそうではない。

斉の大臣である晏子(あんし)は、要路の人でありながら大層貧しかったようで、それを知った王が俸給を増やすと言ったところ、「決して貧しくはありません。君からの禄を貯えて民に施さぬは死に金というもの。」といって加増を受けなかったという。偉そうに振る舞う小人の雄とは大きなちがいである。


 政策がどうの政治理論がどうのと小賢しいことは言わずとも、また宰相にはならずとも、晏子の如き人物が何人も控えているまちがあれば、小人の雄が生まれる余地はなくなるのではないかと思ったりする。


 「晏子」のことをよく知ろうと「晏子春秋」を昨日早速注文した。今日には手元に届く。烏川文庫はますますごちゃごちゃになりそうである。



39.新たな市民の信頼獲得に邁進せよ

 前の市長が土地がらみの汚職で捕まったことから、市の部長級、課長級及び外部委員をメンバーとする委員会による「土地取得に係る業務の検証」が行われていたが、11月20日にその結果が市のホームページに掲載された。


 土地取得に係る「記録」が作成されていなかったことが大きな問題の一つと指摘し、今後、土地取得に係る事務手続きのマニュアルを作成するという。ホームページの記載を見ると、当時の担当者、担当部長、副市長からヒアリングして事情を検証したということだが、肝心の汚職をした本人からは何もヒアリングしなかったという。公判中を理由に聞けなかったのかも知れないが、聞こうとしたのかはじめから聞くつもりはなかったのか、検証委員会の発言「記録」がホームページには記載されていないのでわからない。

 
 汚職事件に関係して、行政執行の過程における記録が作成されていなかったことが問題であることを検証した委員会の検証過程の「記録」が公開されていない。情報公開請求すれば公開されるだろうが、「問題」はそういうことではない。これが伊東市の体質と考えればむべなるかなともいえる。


 愚輩如き市井の凡夫であっても、もし、然るべきポジションにあれば、「現職市長汚職事件の病巣の根は深い。患部を完全に除去するため、切開手術をするつもりで検証委員会の会議記録は発言者の役職、実名を含めてその都度公表せよ。また、ヒアリングした者が公務員の場合は、その内容はもちろん、役職に加えて実名を公表せよ。この検証委員会は、土地取得の問題を突破口として、その他の前市長時代の全ての行政執行の検証に突入する前戦基地と心得よ。以て、新たに市民の信頼を獲得することに邁進せよ。」ぐらいの訓示は言えるのだが。


 何が原因かに加えて、その原因を惹起させた責任をだれが取るのかということの記載もない。汚職をした本人一人に責任があるというのだろうか。それなら、はじめから検証委員会など設置するまでもなかったのではないかと思う。検証結果の末に、土地所得の交渉記録をつくるだとか、土地取得の事務マニュアルをつくるだとかということに落ち着くなら、あーあということになる。


 検証委員会の役割は決まっているので、委員の皆さんはご苦労様でしたということになるのかも知れないが、この結果報告を受けて市長は今後どうするつもりなのだろうか。この汚職事件は、伊東市政の歴史的な汚点であるとの認識をもてば、前市長一人に責任を負わせ、他はおとがめなしで済ませるつもりなのだろうか。(前)市長汚職事件の始末はこれで終わりだというのだろうか。




38.名誉を剥奪せよ

 「悲歌に耳かす人もなく、沈み濁れる人の世に・・・」(第七高等学校造士館記念祭歌)、「止めよ離騒の一悲曲、悲歌慷慨の日は去りむ・・・」(青年日本の歌)などと歌われるように、昔から世は常に末世の観を呈するものなのかもしれない。また、社会に正対しようとする者にとっては、政治は常に不充分であり、それ故、政治家は常に不信であり、二流以下なのである。もっとも、既に悲歌することを止め、変革を目指す行動者にとっては、政治家が一流であろうと二流であろうとあまり意味はない。


 安岡正篤師の講話集「孟子」の中にこんな一節がある。「金や利権や地位を、あるいは評判を追っておる凡庸で通俗な政治家ではもはやこの時代は救えないのであります」と。もう何十年も前のことである。


 伊東市では前の市長が在職中の汚職事件で捕まり、懲役1年6ヶ月が求刑されている。この12月にも1審判決がでようかという。本人も容疑を認めていることだから、一応の決着がつくだろうと思われる。

 国法の仕置きはそれでよしとして、伊東市としては、現市長はどう仕置きをするつもりなのだろうか。ほとんど情報が出てこないので、何をどう考えているのか皆目わからないが、このまま何もしないつもりなのだろうか。


 そうは言っても、現時点では既に公人ではなく、伊東市とも直接の関係はない私人であれば、仕置きをすると言っても、現実にできることは限られるのかもしれない。まあ、普通に考えられることは、佃氏の名誉剥奪である。この汚職事件で伊東市の名誉は著しく毀損された訳だから、過去に伊東市が氏に与えた名誉を剥奪する必要がある。報復といってしまうと少し意味合いが違うが、厳粛な清算というほどの意味である。


 例えば、歴代の市長経験者の写真が市長応接室に掲げられているのだが、汚職事件をおこした市長の写真の下には、「汚職事件で捕まり懲役刑を受けました」(裁判が確定した場合)という説明札をつけ、これを伊東市の汚点として長く後世に伝える。合わせて、今後市長のポジションに着く人の戒めとする。政治倫理条例なんぞという、あまり倫理とは関係なさそうな、右へ倣えのどこにでもあるような条例をつくるよりは、今後市長となる人の戒めには絶大な効果がある。


 その他にもこういう類いのものがあれば同様にして氏の名誉を剥奪する。既に印刷物などになっているものは、これを過去にさかのぼって回収するというようなことはしないが、これから作成するものについては、市長経験者として名前が出てくるものは、必ず、「汚職事件で捕まり懲役刑を受けました」(裁判が確定した場合)という注釈をつける。


 誤って失われた名誉は回復されなければならないが、誤って与えた名誉は剥奪しなければならない。裁判で結論が出ればそれで罪を被るのだから、もうお仕舞いにしていいではないかと考える人がいれば、それは違う。また、氏の功績と相殺してお仕舞いにしていいではないかと考える人がいれば、それも違う。


 風俗は天下の大事である。現職の市長がその地位を利用して賄賂を要求し受け取るなどというのは、風俗の乱れの極みである。風俗は政治家の功績にも国の仕置きにも比すことができないほど大事なのである。


 古今東西の歴史をみれば、悲歌慷慨の次に起こるのは動乱である。できればそうならない方がいい。それに比べれば、名誉の剥奪など実に穏便な方法である。



37.政党の矜持

 ついこの間、現職の時の汚職で捕まった(前)伊東市長に懲役1年6ヶ月が求刑されたという記事が地元紙に載った。新聞には時々この汚職事件に関する記事が載るのだが、伊東市の行政からの情報はほとんど伝わってこない。今頃何をどうしているのだろうか。このままでは市民の関心は一層薄れてしまうだろうにと思う。関心を薄れさせないことが行政の役目なのにな、などと思ったりもする。

 (前)伊東市長が汚職で起訴された時、小野市長は、「職員一丸となって市民の信頼回復に全力で取り組んでいく」とコメントしたという記事が新聞に載った。その後、何をどうして、どう結論づけたのだろうか。それともまだ何かやっている最中なのだろうか。年をとって目や耳の性能が落ちたとはいえ、まだ十分日常の生活には支障がない。そんな市井の凡夫の目や耳には、この汚職事件に関する行政からの情報はほとんど見えないし聞こえてもこない。

 何々検証委員会を設置したというが、その後どうなったのだろうか。結論が出たのだろうか。中間報告は何回あったのだろうか。政治倫理条例を準備しているというが、汚職事件と関係があるのかないのか、条例案の凡夫のパブコメに対する行政の回答では、そこが明確ではない。関係がないということなのだろうか。

 そんなことを考えていたら、来年5月の県議会議員選挙の候補者が名乗りをあげたという新聞記事があった。お名前のあったご本人はほとんど知らない方なので、なるほどと思って記事を見ていたのだが、記事中に、自民党の公認を申請する予定だとあった。汚職で捕まった(前)市長も現市長も、たしか自民党(伊東)から大きな支持を得ていたのではなかったかしらと考えた。公認かどうかという手続き上のことはともかくとして、市井の凡夫には捕まった(前)市長も現市長も自民党(伊東)と一体であると映る。

 さて、(前)市長を支持した自民党(伊東)は、汚職事件に関して何か声明を出したのだろうか。愚輩は気がつかなかった。汚職事件をおこした当の本人を一所懸命支持した政党の立場で、汚職事件の原因を究明し、これからどうするのかということを総括し、広く市民に訴えた方がいいのではないかと他人ごとながら心配する。 

刑事事件で捕まったのだから、政党としては、普通はその程度のことはやるのではないかと思う。もし、とんでもないやつだ、我が党もだまされたというなら、そのことを市民に訴えればいいのになと思う。何らかの声明を出していたとしても、愚輩が気がつかなかったということは、恐らく多くの市民も気がつかなかったのだろうと思う。

 自民党(伊東)の関係者は、この汚職事件であちこち頭を下げて回ったであろうことは想像がつく。勝手な想像だからそんなことはしていないといわれるかも知れないが。まあしかし、声明を出すというのはそういうこととは別のことなのである。

 市長選挙はもっとも身近な選挙である。県会議員選挙だって伊東で一人を選ぶ訳だから似たようなものである。市井の凡夫には、(前)市長汚職事件の総括も宣明していないのに、また県会議員選挙で誰かを支持するなどということがあれば、国民政党だろうが階級政党だろうが政党の名を冠する者の態度としては非常に奇異に映る。



36.幕府の役人と伊東市の役人


昨日、本屋で「墨夷応接録」(2018.10森田健司著)という本を偶然見つけて購入した。もう、本屋で本を買うのは、上京した時に限られている。黒船が来た時のペーリーと幕府要人との交渉記録(初めての日米交渉)の現代語訳である。日本側が記録した交渉記録ということになる。

淡々とした記録だが、はじめの数ページを読んだだけでも両者の駆け引きが見て取れる。どう喝されて一方的に幕府が譲歩した訳ではないことがわかる。ペリー側の記録である「ペリー艦隊日本遠征記」は、だいぶ以前に購入した記憶がある。


佃前市長の汚職事件をきっかけとして、伊東市では重要な政策決定に際して、そのプロセスを記録していない場合があることが明らかになった。(前)市長が自身で交渉、打合せをしたことは記録に残さなかったという。


以前にある案件で、愚輩が担当部長に、(前)市長自身が交渉した記録を見せろ(必要なら情報公開請求するということ)と言ったら、市長は誰かに報告する必要がないから記録はつくっていないと返答した。市長はそれでもいいかもしれないが、役人はなぜそれでいいと黙っていたのだろうかと今更ながら口惜しく思う。


市長や議員は所詮消耗品だが役人はちがう。また、部長は、市長から口頭で説明があった訳だから、部長としてそれを記録しておくべきだったのである。この時、もっと追求しておくべきだったと反省する。何度も同じことを繰り返して考えるのだが、いやな気持ちになる。


一人で交渉して一人で決定することはあるかもしれない。しかし、記録を残さなければ、組織の中にあってはこれを独裁者という。伊東市に独裁者など居ようはずもない。市長は機関である。独裁機関を設置する条例はない。勘違いもはなはだしい。


自治体は「地方政府」だと言われることがある。実態はともかくとして、そうであるなら、役人は、相応の覚悟、矜持をもって経営に当たらなければならない。地方分権だとか地方の時代だとか言われて久しい。地方創生だとか言われても、まっとうな記録もつくれないようではチャンチャラおかしいということになる。


最近のパブコメで、市長が出席した、あるいは市長自身が行った会議、交渉等はその記録を作成することを条例条文に明記せよと意見を言ったら、その必要はないと却下された。じゃあこれまで通りかということになる。


今年は明治150年だという。日米交渉の幕臣のように優秀であれとは言わぬが、役人はそういうことから学ぼうとする態度を身につけることが大事だと思う。せめて、政策決定プロセスの記録は作れということである。

またまた、その意見は却下すると言われそうである。



35.世間の相場

 誰もやらなければ言い出しっぺがやると世間の相場は決まっている。だから、そうは思っていても、なかなか自分からは言い出せないこともある。そうして誰も言わなければ誰も気がつかなかったことと同じことになる。本当は、大方の人が気がついているのにである。


 自分ではできなくとも、言ってみれば、言い出しっぺではない別の誰かがやってくれることがない訳ではない。世間の相場も変動することがある。


 前市長汚職事件は市長の犯罪であるにもかかわらず、現市長はその改善策、改革策として、「業務見直し」だの「倫理条例」だのとおよそトンチンカンなことを言う。何とか委員会をつくって、見直しだの検証だのとあらたまって言う前に、職員一人一人がすぐにできることはいくつもある。


 また、倫理条例などと言う前に、まず市長は、聖賢の書を読むべきである。政(まつりごと)を行う者の私利私欲を戒め、倫理向上の心構えを説いた古典は一つや二つではない。汚職事件をおこした前市長はおそらくそういう古典は読んだことがないのだろう。


 市長の汚職を繰り返えさせないために、「市政監察委員会」を設置すべしと当局に意見をいったら、そんなものは必要ないと言われた。この「監察」の仕事は、汚職の未然防止、事後摘発に加えて、行政に関わる伊東市の悪しき体質を改善することにも役立つこと請け合いである。市井の老人が請け合ったとて、何の保証にもならないが。


 行政が自らの中に「監察」の仕組みをつくらなければならないほど、重大な状況なのだということにどうして気がつかないのだろうかと思う。もっとも、現市長は汚職事件を起こした市長の後を継ぐといって当選したのだから、そんな核心的かつ革新的な方策をとるはずは、いや、とれるはずはないかも知れない。


 行政がやらなければ市民の誰かがやるしかないということになるのだが。



34.「市長汚職防止条例」を却下す


伊東市長等の政治倫理に関する条例(案)」のパブリックコメント募集が10月1日で締め切られたが、市のホームページにパブリックコメントとそれに対する市の回答が掲載されている。

 20件の意見があったというから、やはり前市長の汚職事件に関する市民の関心は低くないのだろうと一瞬思ったのだが、何とその20件は一人の意見だという。なんだパブコメは俺だけかと拍子抜けしてしまった。


 もっとも、パブリックコメントを募集するに当たって、条例の制定動機の説明が記載されていた訳ではないから、条例(案)だけ読めば、一般的な政治倫理条例を制定するとだけしか読めない。この条例(案)に意見が出ないのも無理からぬことかも知れない。愚輩のパブリックコメントの回答にも、「佃前市長汚職事件」の文字は一切出てこない。


20件の愚輩のパブリックコメントは、ことごとく却下されたのだが、一つだけ愚輩の意見を取り入れて、「市長等の責務」に「自ら進んでその高潔性を明らかにし、」というのを挿入し、修正するという。

 愚輩は、「伊東市長等の政治倫理に関する条例(案)」の修正意見を出しつつ、「市長汚職防止条例(案)」という条例を制定すべしと言ったのだから、愚輩の意見を取り入れるという「自ら進んでその高潔性を明らかにし、」は、愚輩の意見の核心ではない。


 思うに。条例で倫理を求めても市長の汚職事件に対して屁の突っ張りにもならないことは明らかである。愚輩の意見に対する回答に、「国家公務員においては国家公務員倫理法が、各地方公共団体においては、広く倫理条例が規定されており、特段、問題はない」とあった。それで汚職がなくなったかということになる。その倫理に関わる法律や条例が問題なのであることに気がつかなくてはならない。


 伊東市政の歴史上、最大の汚点を惹起させた状況に対して、どこにでもあるような政治倫理条例をつくって対処するのではなく、革新的な方策を講じるべきである。政治倫理条例は「広く規定されており、特段、問題はない」という認識こそが問題なのである。


 「伊東市長等の政治倫理に関する条例(案)」は、追って市議会で審議されることになる。楽しみである。


33.倫理条例ではない。汚職防止条例だ。


 10月1日提出期限の「伊東市長等の政治倫理に関する条例(案)」のパブリックコメントを提出した。理由を付して、条例(案) の修正意見を書いていたら、基本的な捉え方、従って、考え方、組み立てが違う条例になってしまった。どうも別の条例になってしまったようだ。見解の相違だとして、よく読まれずに一蹴されてしまうかも知れない。


 条例の名称は「市長汚職防止条例」に変更すべしとした。理由はこうだ。「本条例は、佃前伊東市長の汚職事件を契機として、その再発を防止するためにこそ制定されなければならないと考えます。そもそもこの場合、倫理とは己を律することだと思いますので、倫理を条例で扱うことには違和感を覚えます。また、条例制定の背景から考えると、既にいくつかの自治体で制定されているいわゆる政治倫理条例に倣うのではなく、明確に市長の汚職を防止するための伊東市独自の条例として制定すべきだと考えます。」


 愚輩の意見の最大の肝は、市長に汚職の気配があれば調査することを任務とする「市政監察委員会」を設置することにある。監察委員会委員の人選を市長に委ねてしまっては意味をなさないので、議会の推薦により市長が委嘱することとした。また、監察委員と市長との利害関係をできるだけ希薄にしておくため、監察委員は無報酬とした。


 市長の汚職の気配を広く情報収集する必要があることから、職員が市長の汚職の気配を感じたときは監察委員会に通報する義務を課した。市民は一人でも監察委員会に通報できることとした。

 ところで、今回のパブリックコメントは、条文まで記載した条例(案)を示してきたが、これまでは、条文は示さずにその条例のアウトラインを示したのみであった。条例のパブリックコメント募集では条文まで示すべきだと意見を言ったことがある。


 その時は、条例は議会で審議するので、議会審議の前に条文まで示すことはできないという回答だったと記憶している。今回はどうしたんだろうと思った。いい加減なのか愚輩の言うとおりだと思い直したのかわからないが、そのことは意見を言わずにおいた。

愚輩のパブリックコメントはホームページに掲載しておいた。興味のある人は少しは何かの参考になるかもしれない。もっとも、完成した条例(案)としてよく練ったものではないから、穴だらけではある。



32.構造改革不可論


 組織は個人と同じようなところがあり、保身や防衛本能がはたらく。故に組織内部からの改革はほとんど不可能である。組織の幹部が改革を行うのは多くの場合まやかしである。なぜといって、組織を改革せねばならない状況に育て上げてしまったのは、意図的であるにせよそうでないにせよ、組織を運営してきた幹部であるから、改革の前にまずその責任を取らねばならないからである。


 組織の真の保身や防衛は、これまで組織に貢献してきた幹部を一掃することから始まる場合もあるが、一掃するのも幹部であれば、そう簡単ではない。実際には内部改革と言っても、その目的や度合いにより一様ではないから、そこそこの改革や見直しで落ち着くことになる。組織の大胆なあるいは決定的な内部改革は、組織であるが故に難しい。


 伊東前市長の汚職事件は、伊東市政の歴史上忘れてはならない汚点であるから、その後の市政の構造的な改革は急務である。当局は、内部改革をすべく「土地取得の業務見直し検討委員会」を立ち上げたり、政治倫理条例を制定しようとしているのだが、これでは構造的な改革にはまずならない。何故なら、構造的な改革というのは、一業務の「見直し」や既にいくつかの自治体で制定されているような条例の制定というような、日常業務と余り変わりがない次元の話しではないからである。象徴的な言い方をすれば、誰も血を流さずに構造的な改革は成し得ない。


 この場合、構造的な改革とは、厳格な統制、引き締めのことも言う。一業務の見直しや政治倫理条例の制定などでは、真剣みや怖さが伝わってこない。例えば、まず「市政戦略課」を「市政監察課」に改編し、「政治倫理条例」ではなく、「市長汚職防止条例」を制定すべきである。諸葛亮は、蜀軍の統制のために最愛の弟子の馬謖を斬ったではないか。好んで血を流すことはないが、伊東市の今の場面では、そういうことのできる軍師が必要である。ポジションで考えれば、市長や副市長がその軍師に相当するのだが。


31.スクラップブックの発見と市長汚職事件


 過日、地元紙1面トップにおもしろい記事があった。60年前の狩野川台風被災後の新聞記事のスクラップブックが議会から出てきたという。記事によれば、議長応接室の棚に「保管」されていたものを棚を整理していた議長が「見つけた」という。歴史的な災害を被ってちょうど60年が経つこの時期に、こうしたものが発見されるというのは何かの因縁があるのかも知れない。


 今年は、佃前市長が現役時代の汚職容疑で逮捕起訴され、伊東市政の歴史的な汚点となった年でもある。狩野川台風の災害もこの歴史的な汚職事件も、繰り返してはならないという意味で、伊東市の記憶として長く後世に伝えていくべきである。狩野川台風のスクラップブックの「発見」は一つの啓示であるかも知れないなどと思ったりする。


 市長汚職事件から明らかになってきたのは、施策、事業の決定プロセスの記録をつくっていないという市役所内の文書管理の問題点である。特定の案件についてそうであるならまだ救いはあるが、それが佃市長以前から恒常的にそうであるなら、何をか言わんやである。件の「スクラップブック」について、新聞記事を基にして、文書管理上の視点から考えてみる。


 まず、「スクラップブック」は公文書かどうかということだが、記事のとおり当時の議会事務局職員が収集整理して資料として作成したものであるからこれは公文書である。それが市役所内に長年「保管」されていたことからも明らかである。

 公文書の保管は、何が何処にあるかというリストを作成しなければならないが、該当するリストは残っていないか初めから作成していないと思われる。公文書には保存年限があるが、60年も「保管」されていたのなら、永久保存の公文書ということになる。しかし、永久保存の公文書が市役所内から「発見」されるというのもおかしい。これは適正な管理の下に保存されていたのではないことがわかる。もし、永久保存ではないとすれば、保存年限を過ぎた公文書は遅滞なく破棄しなければならないから、破棄を怠ったということになる。


 第一、保管場所が議長応接室というのも変である。こうした資料を保管するなら議会図書室が相当である。議会図書室にある蔵書、資料はリストを作成してあるはずだから、「スクラップブック」は、議長に「発見」されずとも、その存在は既にわかっていたはずである。狩野川台風後50年の時でも40年の時でも、以前から有効に活用されていて然るべきである。そうすれば、今頃の話ではなく、10年も20年も前から防災施策にあるいは市民の関心の醸成に役立っていたかもしれない。もっともそれでは新聞記事にはならないであろうが。議長が議長応接室で公文書を「発見」するなどということは議会の公文書管理の稚拙さを示す証拠である。


 せっかく「発見」した「スクラップブック」だから、今からでも「活用」するのは大いに結構なことだが、公文書管理の稚拙さは政策実施の遅滞につながることがある。犯罪にだってつながることがある。公文書管理は仇やおろそかにしてはならない。


30.佃前市長のヒアリングはもう済んだか

 伊東市では9月市議会が開催中だが、初日の9月3日に佃前市長の汚職事件に関わる「土地取得に係る監視機能強化特別委員会」の中間報告があった。中間報告書は市議会ホームページにも公開されている。


 一方、当局においても市長汚職の再発防止をはかるために「土地取得に係る業務見直し検討委員会」が設置されているが、こっちの方は、どうなっているのか皆目わからない。伊東市ホームページのトップページをみても、この検討委員会のページにリンクできない。まさかページをつくっていないということはないだろう。市議会ホームページでは、特別委員会のための新たなページをわざわざ開設している。市議会トップページから容易にリンクできる。


 土地取引の交渉記録が作られていないことから、市議会特別委員会の中間報告書には、「当局において関係職員等に対するヒアリング等を実施することで記録を再現し、本委員会への追加資料として提出を求める」としている。そのとおりである。


 当局は、市議会に言われる前に、記録を再現し公表しなければならないのに、後手に回っている。どうしてこうなんだろうとその稚拙さに感心してしまう。ところで、佃前市長からのヒアリングはもう済んだのだろうか。まさか、このヒアリングをしないで済ませるつもりということはないだろう。


 市議会の中間報告書には、「関係職員等」に対してヒアリングをすべしとある。「等」に佃前市長が含まれるのは当たり前である。核心の人物からヒアリングしないで、業務見直しもへったくれもない。もし、当局が佃前市長からヒアリングしないのなら、現小野市長は何か弱みがあるのかと思われてもしかたがないということになる。佃前市長は、裁判があるからヒアリングはできないなどと変な理由を持ち出すようなことがあれば、気合いが入っていないことこの上もない。もし、そうなら、ヒアリング試みたが拒否されたと報告すべきである。


 まあ、しかし、そんな心配をすることはない。現小野市長が佃前市長からヒアリングしない訳はないではないか。市長であった人が伊東市のヒアリングに正直に答えない訳はないではないか。


29.組織の矜持


 近頃はネット上で映画やTVドラマをただで見ることができる。便利な世の中である。昨日、「しんがり ~山一証券最後の聖戦~」というドラマをみた。何年か前、山一証券が自主廃業するとき、テレビニュースで、社長が「社員は悪くありません」と涙を流して記者会見する姿を覚えている。


 山一証券は、最後になぜ廃業するに至ったかを社内調査し、幹部の犯罪に関係した社員の実名入りの調査報告書として公表する。このドラマは、社員の非協力にあいつつも、調査報告書を完成させる調査委員会の数人の社員たちの物語である。主人公は、この調査委員会の委員長となる人物である。


 会社は既に廃業と決まっているのだが、何がその原因なのかを正確に調査し、8000人の社員と顧客と社会に公表して、組織としての矜持を全うしようとする、まさに殿軍(しんがり)としての戦いである。


 このドラマに特に興味があった訳でははなく、たまたま見たに過ぎないのだが、見始めると約5時間の全編を1日で見てしまった。愚輩をして、何がそうさせたのかというと、山一証券を伊東市役所に、自主廃業に至る前社長たちの犯罪を佃前伊東市長の汚職に重ね合わせていたからである。伊東市にとって、実に示唆に富む映画であった。


 ドラマを見ながら、ふむと頷いた場面の台詞のいくつかをその都度メモしておいた。東京地検の家宅捜索が山一証券本社に入った時の主人公の台詞はこうだ。「他人が社内に乗り込んで調査しているのに社内で調査できないとは何事か」と。前市長の汚職事件の捜査で、伊東市役所にも家宅捜索が入ったが、それを見ていた職員の内、何人がこの主人公と同じように考えただろうか。また、別の場面で主人公はこうも言う。「会社の過ちを正せるのは同じ会社の社員だ」と。こう考える市役所の職員は何人いるだろうか。


映画では、司直の手が及ぶことを察知した会長、社長は自身から退陣し、顧問の座におさまり、新しい会長、社長には、経営幹部の犯罪は知らず、自分たちのコントロールが効く者を着ける。テレビニュースで見た廃業記者会見で涙を流した社長は、このきのどくな社長である。


 佃前市長も市長を辞めてから、新たにつくった特別顧問というポジションにおさまる。新しい市長はというと、前市長のコントロール下にあるかどうかは知らぬが、また、きのどくかどうかはともかくとして、その後継と自認して市長選挙を戦った現在の小野市長だ。映画とどこか似ている構図ではないか。


 佃前市長の犯罪はついに発覚し起訴された。市役所には、犯罪の再発防止のため「土地取得に係る業務見直し検討委員会」が組織された。しかし、この委員会が今何をしているのか、その活動の様子は全く公表されない。映画のようにはいかぬものである。


 委員会のメンバーはというと、佐野博之副市長を委員長に、部課長10人と有識者(税理士、司法書士)3人の構成だという。映画の山一証券はつぶれてしまうことがわかっていたから、犯罪の原因調査までで業務の見直しはなかった。それでも、最後に組織としての矜持を命懸けで守った。


 伊東市の検討委員会は、当然のこととして、佃前市長の犯罪の原因を調査するだろう。関係する職員の実名入りの報告書を公表して、自治体の矜持を守ることができるだろうか。それとも、悪いのは佃前市長一人であり、職員は無関係であるとするのだろうか。検討委員会委員長の佐野副市長は映画の主人公に重ねあわせることができるであろうか。


28.「市長汚職防止条例」と「市長政治倫理条例」


 法律では市長は自治体を代表するとしているが、これを市長は自治体(即ち住民)の指導者であると言い換えることができるであろうか。市長は法的な決定権や執行権を持つが故に、ここでいう指導者とは政治的なという意味である。議会に執行権はないが重要事項については市長以上の決定権を持つ。議会の構成員たる個々の議員は政治的な指導者と言うことができるであろうか。


 現在伊東市では、「市長等の政治倫理に関する条例(案)」のパブリックコメントを募集している。似たような条例はだいぶ以前からいくつもの自治体で制定している。「政治倫理」という言葉を持ち出すようでは、大概右へ倣えの条例である。どこかに伊東市独自の内容があるのかも知れないが、そういう説明は一切ないから、仮に独自の内容があったとしてもそれが何だかよくわからない。普通の住民が他の類似の条例を自分で調べて、伊東市の条例の特徴を探し出すのは大変な労力である。


 「倫理」という言葉を改めて調べたら、確立された社会規範というような意味で使われることが多いようである。つまり、名称から言えば、結局市長は政治的な規範を守りましょうというような条例だということになる。こんな使い古された名称では、この条例を制定してどうしたいのか甚だ不明瞭である。


 倫理という規範の遵守を市長自身が自覚するのは当然としても、それは条例によって求められるべきものではない。市長というポジションに着こうとする者が、自らその欲望を制し、自らその徳を培い、人を教化できる程の人格者たり得るように日々精進できなければ、権力は持てたとしてもおよそ指導者とは程遠い。しかし、住民の入れ札によって決まる市長が常にそういう人格者であるとは限らない。


 今伊東市がこうした条例を制定しようとするのは、前市長の汚職事件があったからに他ならない。もし当局が、判決はまだ確定していないなどの理由で、必ずし前市長汚職事件が契機ではないなどと説明をするなら、それはまやかしである。累が自分たちに及ぶことを避けたいと思う保身の現れに映る。市長による汚職事件を決して起こしてはならないという、高い理想、堅い決意、熱い思いで条例を制定しなければならない。この理想も決意も思いも条例を制定しようとする現職市長一人のもので十分である。市長一人の思いや行動が住民を教化できれば、りっぱな指導者である。


 市長たる人に条例で倫理を求めるのではなくて、市長の汚職を予め防ぐための仕組みとしての条例、即ち「市長汚職予防条例」を制定すべきである。「市長汚職予防条例」は、倫理などという言葉を使うよりも、条例の目的と中身が明瞭にならざるを得ない。芽は早い内に摘むべきである。大きく育った木を切り倒すのは大変であるし、既に自分の種をあちこちに蒔いてしまっている。


27.市長汚職事件と市長等倫理条例(案)のパブコメ


 あることを調べようと、市のホームページを開けたら、「新着情報」に、2018年08月31日付けで「伊東市長等の政治倫理に関する条例(案)に対するパブリックコメント」とあるのを偶然見つけた。あと一つ新着情報が掲載されると、この記事は表示から隠れてしまうからほとんどの人は気がつかない。


 また、パブリックコメントのタイトル(バナー)に「募集中」の表示でも出せば何だろうとクリックする人もあるだろうが、そういうものはないから、パブリックコメントを募集しているのかどうだかわからない。もしかしたら地元紙にも掲載されたのを見落としてしまったかもしれない。明日には掲載されるのかも知れない。


 さて、その「伊東市長等の政治倫理に関する条例(案)に対するパブリックコメント」だが、条文の中身は別によく考察するとして、この時期になぜそういう条例をつくろうとするのか数行の一般的な説明しかない。

 前市長汚職事件が「背景」にあるのだろうと思うが、何の説明もないからそうではないかもしれない。条例条文は掲載されているが、特段の説明もない。どうしてそういう内容に至ったのか、何かを参考にしたのかというようなわかりやすい資料はない。


 参考資料として、この条例(案)と市長の資産等の公開に関する現行条例の逐条比較が、「改正後」「改正前」として付いているが、新規条例なのか一部改正条例なのか、はじめは何のことだかよくわからない。条例(案)の最後の附則に、市長の資産等の公開に関する条例は廃止するとあるから、なるほどとわかる。


 「伊東市パブリックコメント手続き実施要綱」というのがある。それによれば、(案)を公表する時は、「作成した趣旨」「目的」「背景」等、その(案)を理解するために必要な資料を併せて公表するように努めるものとするとある。しかし、実際にはそうはなっていない。要は不親切なのである。条例(案)だけ示して、さあご意見をどうぞと言っているのである。


 この「伊東市長等の政治倫理に関する条例(案)」 は、前伊東市長汚職事件とは無関係なのだろうか。そんなことはないだろう。気合いが入っていないことこの上ない。政治姿勢というものは、こういうところにも現れるものである。


26.赤貧の中、襤褸をまといて歩く人のあり

 ネット上に、過日総理大臣が歴代総理などとしたゴルフと翌日の夕食会の楽しそうに談笑する写真が掲載された。この写真は、総理大臣ではなく参加者の内一人が自分のブログに公開したという。談笑する写真には、ゴルフ参加者以外の姿も見えたから、色んな話をしたのかも知れない。愚輩はゴルフをしないのでよくわからないが、大いに鋭気を養ったのだろう。総理大臣ともなれば緊張の毎日が続く。リラックスできる時間をつくって次に備えるのは大いに結構なことだと思う。一方ではそんな写真を公表しなくてもよいのにと思う。


 ちょうど田中正造の「非常嘆願書」という小冊子が机上にある。数分で読んでしまえるものだから、読み終えたらどけておけばよいものをいつまでも置いてある。だいぶ以前に購入したVHSで見た三国連太郎主演の「襤褸(らんる)の旗」は強烈な印象であった。正造翁は亡くなるときは無一文だったという。愚輩如きは比較にもならぬが、かくありたいものだとは思いつつも、正造翁に比べれば怠惰な生活を送っている。先の総理大臣のネット画像を見る前に「赤貧洗うがごとき」というDVDを注文した。数年前に発売された田中正造のドキュメンタリーだという。このDVDのことは知ってはいたが、なかなか購入せずにいたものだ。


 時代も状況も立場も違うことから単に比較をしても始まらぬことは重々承知だが、総理大臣がゴルフでリラックスして、何やら旨そうに食べている姿と映画の田中正造の姿と自分の姿を重ねてみるとため息がでてしまう。


 田舎町の指導者はどうであろうか。逮捕された田舎町の元市長は、市長を辞めてから、襤褸をまとってまちを歩いたとは聞いていない。赤貧であったとも聞いていない。指導者への期待と批判は苛烈である。指導者は過酷である。


25.記録がないならヒアリングしてレポートを公表せよ


 過日の地元紙によれば、佃前市長汚辱事件の始末をつけるべく設置された市議会特別委員会の第2回目が開催され、当局からこれまでのいくつかの土地取引に関する資料が提出されたという。しかし、議会から資料を要求された全ての案件について、当局が土地取得を決定するその経過の記録がないという。誰が誰とどんな交渉をし、庁内の何という会議でどんな議論を経て決定したのか、その肝心の部分の記録がないという。廃棄したのか、はじめから記録を作成していなかったのかわからないが、どこかの国みたいに、後からやっぱりありましたなどと出てくるのではないかと思ったりもする。まあしかし、ないものは仕方がない。


 小野市長は、9月頃を目途に、議会と同様に佃前市長時代の土地取引に関する検証をしている訳だが、これを公表する時、記録がありませんでしたと説明するのだろうか。いくら何でも現役市長はそんなことはしないだろう。記録がないならないで、当時の幹部や担当者はまだ現役でいるのだろうから、退職者も含めて関係者にヒアリングをして、レポートを作成するぐらいのことはやるだろう。そのヒアリングの記録も含めて公表すべきである。


 当局は記録はないというが、汚職事件の舞台となったマンダリン跡地の土地取得に関して言えば、議会審議の中で、今振り返ってみれば質問が十分ではなかったとの批判は受けるにせよ、議員の質問に対して、当時の中村総務部長も原副市長も答弁してその経緯を答えているではないか。当時の答弁者に新たにヒアリングをして、土地取得の詳細な経緯を整理するレポートを作成しなければ市長の職務は果たせないのではないか。レポート作成に当たっては、佃前市長にもヒアリングするのは当然のことである。

 小野市長は、このことについて今何をやっているのか新聞報道以外には情報がわからない素人が考えても、そのくらいのことはやるだろうと思うのだが。


24.「6万9千人の市民と共にあり」

 予て予約しておいた、「空母いぶき(10)」が手元に届いた。中国の急襲をを受け、沖縄諸島のいくつかを奪われ、住民が拘束されている中、「いぶき」を旗艦とする自衛隊第5護衛隊群と中国広東艦隊との戦いがいよいよ始まった。これに日本が敗れることがあれば、大変なことになるのは言うまでもない。


 日本艦隊と中国艦隊が戦闘状態に入った報告を受けた総理大臣が黙考する場面がある。総理大臣曰く、「常に、1億2千万の国民と共にある。」「一人の日本人として私はそれを自覚している。」と。漫画みたいなことを言うなと思ったが、考えてみれば指導者のポジションに立つ者の当然の言辞である。


 伊東市長は市民6万9千人の指導者である。市長をして、「常に6万9千人の伊東市民と共にある。」「一人の伊東市民として私はそれを自覚している。」と言えるだろうかと考える。この場合、そう公言できるだろうかということではない。市長に当選すれば、誰でも人前で似たようなことを言うことはできる。しかし、件の「空母いぶき」中の総理大臣のように、黙考できるかということである。独考できるかということである。


 前伊東市長はそれができなかった。人前では偉そうなことは言えても独考はできなかった。公言はせずとも、独考できていれば、汚職事件など起こせるはずもない。汚職事件の判決が出たとは聞いていないが、既に伊東を離れて別の場所に住んでいるという。 「常に6万9千人の伊東市民と共にある。」「一人の伊東市民として私はそれを自覚している。」とは言える訳もない。


 独考は「独慎」の意である。「大學」に君子は一人を慎むとある。独慎は時に重圧ともなる。これに耐えて踏み出すことができる者こそが君子である。件の総理大臣は君子かもしれない。愚輩は独慎を心掛けてはいるが未熟である。人の批判はすれども、己はまだ総理大臣にも市長にもなれそうにない。


23.決起の報道

 文科省現役高級官僚汚職事件のあり。同省中堅課長補佐級有志、これに危機感を抱き、省内抜本改革を提言したとの報道あり。国家の前途を憂い、幹部級には任せはおけぬとの決意からかと慮る。


 昭和十一年二月二十六日、陸軍尉官級有志将校、国民の疲弊に危機感を抱き、その指揮下の兵をも動かし、国家改造を目途に、昭和維新を断行せんと指導層を斬除し反乱決起す。事成らずして、決起の将校銃殺刑に処さる。

 伊東前市長汚職事件のあり。逮捕起訴されしは市長をやめてからのことなれども、事件は現職の時に起こしたことにして、「前」市長ではなく、紛うことなく「伊東市長汚職事件」なり。同市中堅勇士職員、伊東市の前途に危機感を抱き、幹部級には任せておけぬと、庁内抜本改革を提言したとの報道未だ聞こえてはこず。


22.汚職事件の関心遠のくを感じて


 政治家は消耗品にして、文字どおりその身を消耗させる覚悟でその任務を果さねばならぬ。古人曰く、「身を鴻毛の軽きに比す」と。消耗品とはこの身の軽ろきことの意なり。続けて曰く、「義は泰山の重きにおく」と。義とは天下万民のための正義の意なり。


 しかしながら、斯様にして任務を果たしても、なお毀誉褒貶は人の世の常なり。棺の蓋を覆いても評価の定まらぬもまた人の世の常なり。なかなかに思うようにはならぬものなり。


 消耗品が摩耗すれば交換するのは当然なり。出来の悪い消耗品が出るときは、既定の期限前でも速やかに交換するのもまた当然なり。摩耗しても交換せず、不良品とわかっても交換できねば、システム全体が劣化するのはこれまた当然なり。


 市長の汚職は、行政システムにとって致命的であると言わざるを得ぬ。政策の巧拙による毀誉褒貶以前のことなり。汚職をした市長は、例え棺の蓋が覆われた後でも、その評価を上げてはならぬのである。

何故なら、政治とは公正、公平を旨とし、為に、政治家は無私であることに傾注しなければならぬが故である。言うまでもなく、権力の行使は、目的ではなく手段なのであって、無私であることに傾注しなければならぬ政治家がその権力を使って私腹を肥やそうとするが如きは、その罪重すぎることのなし。


 政治家はすべからく清廉の士たるべし。しかし、人の心理は必ずしも単純には非ず。そうあるべきとは知ってはいても、心が乱れることがない訳ではない。其は権力を手にするが故なり。人の心の弱きが故なり。斯くわかっているが故に、古来、要路に立つ賢人らは己の心の有り様に腐心するのである。其れ、政治家たらんとする者の基本的な教養の一つなり。


 我、もとより凡夫なれば、先哲、賢人の足下にさえ遠く及ばされども、凡夫は凡夫なりに聖賢の書を読み、碩学の教えを学ばんと努めたり。田舎町の一議員にしてからである。まして一市を代表する市長ともなれば、その努力、愚輩如きの比ではあるまいにと慮る。

 時は夏、七十数年前の我が国敗戦の日の近づきたり。阿南惟幾陸軍大臣五十八歳、敗戦に際して曰く、「一死以て大罪を謝し奉る」 と。田舎町であろうと政治家ともなればこれほどの覚悟はもちたいものである。天下に伊東の恥をさらすも、また、発言は可能であるにも関わらず、前市長から「市民に対しその大罪を謝す」との言葉は聞かれない。阿南大臣続けて曰く、「神州不滅を確信しつつ」と。前市長、「郷土伊東の不滅を確信す」と果たして言えるであろうか。


21.老人の戯言というなかれ

 市長も市議会も佃前市長の汚職事件を検証するというが、汚職事件の何を検証し、その後どうしようというのだろうか。汚職に至る諸事実を明らかにすることはできるかも知れぬが、それをやった当事者の心理を理解し、また、そのことを知っていようがいまいがそれを許るすに至った市幹部級職員の心理状況やそういうことを受け入れてしまった業界の状況を理解し、それを打破、改造しないことには、伊東市政の体質を改善することは不可能である。

 この汚職事件そのものは、裁判で詳細が明らかになるだろうが、この事件は、前市長の特異な事件として幕引きをはかるような代物ではない。このまちの歴史的汚点であるとの認識が大事である。事件とは切り離して、辛抱強く伊東市政の体質改善の不断の努力が必要になると言うことを念頭に置いておかなければならない。


 特に市役所の職員は事件の当事者の内なのだから、よっぽどの覚悟(身を捨てる覚悟という程の意味)がなければ市政の体質を改善することはできない。現市長は佃前市長の系譜を継ぐ者だから、市長に期待できないのは当然である。市長に造反しても体質改善を進めなければならないと思う多くの勇士職員が求められるのである。市役所の幹部級職員は、退職により順次交代していくわけだから、現在の体質を若い職員たちに引き継がないためには、あるいは引き継げないようにするためにはどうするかに腐心しなければならない。

 一方、業界はというと、利害が絡んでいるから、自発的にはそう簡単に改造することはできない。業界の
ことは、発注者の体質改善がされれば、自ずと改善されていくはずである。佃前市長が県会議員だった12年間と市長だった12年間の合わせて24年間かけて構築された市政の体質は、同じ時間をかけなければ改造できないと思っていた方がいいかもしれない。


 市議会はといえば、佃市政を支えるとしていた会派議員、あるいはその系譜である現市長を支えるとしている会派議員が厳然として過半数を制しているのだから、また、今回の汚職事件に際して、佃市政を支えた会派として何らかの声明を出したということも聞いていないから、何をか言わんやである。


 普通は何らかの会派声明を出すだろうと思うのだが、愚輩が知らないだけかも知れない。来年の9月は改選だから、その結果がどうなるかで伊東市政の体質改善が叶うかどうかが方向付けられる。


 愚輩如き市井の老人が何を言ったところでどうなるものではないかも知れないが、時間をかけて丹念に取り組まなければ我がまちは危ういと思っている。


20.「驚き・残念」と「怒り・憤り」

 7月15日深夜に自動車が市役所玄関から中に突っ込んだという記事が今日の地元紙に乗った。犯人も捕まり、動機は税金に不満があったという。新聞記事に市長と副市長のコメントが掲載されていた。市長は「とんでもない暴挙」といって怒りをあらわにしたという。副市長は「・・・どんな事情があるにせよ、こういう行為は許されない。市庁舎は市民の共有財産であり、憤りを感じる」とあった。

 記事中のこの件を読んで、極めて気持ちの悪い違和感を感じた。前市長が汚職事件で逮捕された時、市長はこれほど怒りをあらわにしただろうか。副市長は市民の共有財産が犯されたといって、また、公正、公平を旨とすべき公務員の信頼が犯されたといって、報道にその憤りの言葉を掲載させたであろうか。たった1ヶ月前のことである。隅から隅まで報道各社の記事を読んだ訳ではないが、「驚き」「残念」などの言葉はあっても、市長、副市長が発する「怒り」「憤り」という言葉は見た記憶がない。


 トラック突入事件にも増して、汚職事件こそ「怒り」「憤り」の言葉を使って、市長、副市長が語るべきものであると凡夫は考える。両事件の性質を比較すれば、そんな事はすぐに理解できそうだろうにとも考える。


 トラック突入事件は、少なくとも直接的には市長、副市長は無関係であり、むしろ被害者の立場だと思っているから、「怒り」や「憤り」を感じたのだろうが、前市長汚職事件は、そうとは言い切れないから、この言葉は使えなかったのだろうとも推測する。もしそうであれば、何とわかりやすい善良な政治家であり、善良な公務員ではないかと思えてしまう。


 以て他山の石となすべしという。市井の凡夫といえども言葉の使い方には気をつけようと思う。



19.凡夫の検証委員会


 過日、前伊東市長の汚職事件に関して市長と市議会が検証のための委員会を立ち上げた。市長だけに任せておいては、自身が前市長の後継として当選してきていることから、また、職員も全く無関係とは言えない場合もあるかもしれないことから、十分な検証は必ずしも期待できない。議会はといえば、そもそも合議制の組織であることから、こういう場合に、議会全体としては強力なリーダーシップをとることが難しいこともある。


 広い意味では、市長も議会も汚職事件に関わりがある訳だから、こういう検証作業は、市長や議会の影響下にないくつかの視点からも考察した方がいい。


 愚輩は、前市長在任期間と自身が議員であった期間が重なる部分があるので、結果として自身にも大いに責任があるものと思っている。既に議会の影響下にはないが、それは議会への直接的な影響力もないということである。


 市長や議会の影響下にないくつかの視点からも考察した方がいいとはいうものの、愚輩に何ができる訳でもない。しかし、愚輩のような立場からの検証、考察もまた伊東市政の体質改善の一助になることもあろうかと思っている。


 市長や議会に比べれば、資料収集等に関して市井の凡夫がもつ権限は皆無であるが、公開される資料からでも検証し、問題点等を考察することはそれなりにできるのではないかと思う。

手始めに自身のホームページに考察のための頁を開設し、その資料等を公開していくこととした。


18.映画「空とぶタイヤ」と伊東市の政治状況

 今日、映画「空飛ぶタイヤ」を見た。走行中に脱輪して、歩道を歩いていた人を殺してしまったトラックを製造した大手自動車メーカーの隠蔽体質をあばくストーリーである。


 はじめはそのトラックを使っていた小さな運送会社の整備不良が原因だとされたが、そんなはずはないと思ったその運送会社の社長が、過去に同様の事件で責任を押しつけられた同業社から聞き取り調査をするなどして、根気よく真の原因を突き止めた。


 その後自動車メーカーからの内部告発者も現れて、だいぶ以前からトラックの構造的な欠陥を隠していたことが明らかになり、最後には隠蔽体質の根源である専務がつかまり、自動車メーカーのリコール隠しが社会から糾弾されるというものだ。特に見たいと思った映画ではなく、たまたま見たようなものだが、愚輩は、この映画を見ている内に、前市長が汚職事件で逮捕起訴された伊東市の政治状況を重ねてしまった。


 伊東市長は、7月11日に「土地取引業務見直し検討委員会」の第1回会合を開いたという。前市長時代に市が購入した土地取引を検証するというが、具体的に何を検証するかよくわからない。逮捕起訴された別の案件でも前市長が汚職を働いたことを見つけようというのだろうか。そんなことは検討なんぞする前に警察に言はなければならない。逮捕起訴された前市長の系譜を継ぐ市長は、本気で内部告発をしようと思っているのだろうか。また、この検討委員会は、前市長の下で働いてきた役所の部課長が主なメンバーである。検討などしなくとも、どこがまずいか自分たちが一番よくわかっているはずではないか。「検討」ではなく「反省」のまちがいではないのかと思ってしまう。


 映画では、企業の長い間のリコール隠し、隠蔽体質が底流にある。企業の体質は、結果としてみればその社員によって培われてきたものである。即ちその企業の風俗である。


 前市長の汚職事件が起きる数年前に、市議会本会議場で前市長に向かってこんなことを言った。奇しくも、市長が2台も市長車を使っていたのはどういうことかという「自動車」に関する質問の中の一節である。


 「僕が一番心配をするのがこういうことなんです。『風俗は天下の大事』と言います。つまり正しいことが行われなくなって――市長のことじゃないですよ、一般論として。人々の風俗が乱れて、いや、このぐらいのことしても大丈夫だというような世の中になってしまっては、幾ら財政が健全になろうが、幾ら職員の皆さんに内発性が出てこようが、アウトなんですね。そこのところに、例えば市長は車2台使っているじゃないかと。手続の話はともかくとして、実質こうなっているではないかと。何で市長が2台も使うんだと。ほかの人が使うならともかく、伊東市を代表する市長がこういうことでいいんだろうかということが、いいんだろうかと言っているうちはいいんですけれども、ああ、そういうものかとなっては困るなと僕は思うわけです。ですから、ささいなことかもしれませんけれども、こういう公の場で取り上げさせていただいている次第です。」


17.義理が廃れりゃこの世は闇よ

 少し前の話にはなるが、岐阜県美濃加茂市の市長が汚職で逮捕、起訴されるという事件が起こった。現在では既に刑が確定している。逮捕、起訴された時に、人口約5万5千人のこのまちの18歳以上の2万人をこす市民が、早期釈放を求めることに署名したという。あの市長に限ってそんなことをする訳がないということである。


 そのまちの政治状況は知らないが、伊東市の前市長の汚職事件と比べてみると興味深い。佃前市長の逮捕、起訴に際して、三期も市長に当選させた支持者市民は、早期釈放を求める市民運動を起こしたであろうか。愚輩は寡聞にして知らない。


 佃前市長の後継と言われる現市長は、逮捕、起訴されても、佃さんに限ってそんなことをする訳がない、これは冤罪であると、堂々と主張したであろうか。しなかった。それどころか、事件が公になった時には、私の知らないそんな一面(汚職をするということ)もあったのかと嘯いた。さらには、佃前市長在職中の事業の検証と再発防止マニュアルを策定すると言ってのけた。佃前市長の後継ではなかったのか。身を賭してなぜ弁護しないのかと思ってしまう。


 佃前市長と同じ宇佐美地区出身の現市議会議長は、市長与党とされる会派に属し、佃前市長との縁も浅くはないはずである。佃前市長に反旗を翻して市議会議員選挙を戦ったとは、同じ宇佐美の愚輩は聞いていない。それなのに、市長と一緒になって前政権の検証をやるとわざわざ議場で発言した。端から見れば、恩があるだろうになぜかばわないのかと思えてしまう。


 これらは一面の見方である。佃前市長を支持したとはいえ、それはそれ。理非曲直を明らかにし、邪を破り正しきを顕かにしなければならないと考えるが故であると言われてしまえば、なるほどそうかと思わぬでもない。


 しかし、起訴されたとはいえ、裁判で有罪が確定したわけではない。これまで佃前市長を熱心に支持してきた人たちは、どうしてこうなってしまうのだろうかと考える。義も理もあるだろうにと思う。


 愚輩母校の第二校歌に次の一節がある。「義理が廃れりゃこの世は闇よ」と。愚輩は佃前市長を批判するとはいえ、それはそれ。声を大にしてかばう政治家は一人も居ないのかと佃さんのことを慮る。


 佃前市長在任中には市長与党といわれた市議会の会派は、率先して釈放を求める運動を展開したであろうか。そういう素振りは見えない。見えないどころか、それらの会派は、佃前市長の汚職事件を検証し、その他の事業も洗い出す市議会特別委員会設置を率先して発議した。無罪を信じようとするなら、そんな特別委員会設置に賛成する訳がない。あるいは、特別委員会の設置には賛成するとしても、その発議者に名前を連ねる訳がない。議場でそんな訳はないと佃前市長を弁護する発言は十分できるのである。


16.勝手に参考人


 佃前市長の汚職事件で、この6月議会で設置された伊東市議会「特別委員会」では、汚職事件の舞台となった、マンダリンホテル跡地の土地購入に係る議会の審議はどのように行われたのかをまず検証するであろうから、愚輩も検証対象の一つであると思っている。当時愚輩は総務委員会に所属し、この議案の質疑をし、採決では土地購入に賛成した一人である。いつ特別委員会に参考人として呼ばれてもいいように勝手にその心づもりをしている。


 しかし、今年66になる老人とて、体は元気そうに見えても、記憶力は日々減退していることは明らかである。今回の汚職事件が公になってから、思い出してはみるが、断片的であり、当該議案の審議で、自身が何と発言したかまでは詳細には覚えていない。参考人として呼ばれても、「記憶にございません」では恥ずかしいことこの上ない。


 少しでも記憶を呼び起こそうと、当時の委員会会議記録を情報公開請求した。既に何人もの方がこの委員会議事録を情報公開請求しているとは思うが、ネット上でこの委員会議事録には行き当たらなかった。伊東市議会としては委員会議事録をホームページに公開(提供)する仕組みにはなっていない。


 特別委員会に呼ばれるその心づもりをしているとはいうものの、考えてみれば、記憶も定かでない老元議員などを参考人に呼ばなくても、当時の議員で今も現役で活躍している方が少なくない。愚輩などが出て行かずとも、きっと入念な検証ができることだろうと思っている。また、せっかく情報公開請求して手に入れる委員会議事録だから、これを自分のホームページに全文公開しようと思っている。


15.市長と事業者との関わりにも現れる伊東市の体質

 7月7日の地元紙に「(伊東市))佃前市長ら起訴」とあった。統計的には、起訴された事件は99.9%が有罪になるというが、愚輩には今後の裁判を占うほどの法的な知識はない。


 同じ記事に、佃前市長起訴に関連して、伊東市長、伊東観光協会長、伊東商工会議所専務のそれぞれの短いコメントがあった。新聞記事だから、記者が要点を整理したものかもしれない。その中で伊東商工会議所専務のコメントには驚いた。愚輩とは感覚が大分違うということである。


 そのコメントには「前市長の逮捕に多く会員事業所が驚いたが少しづつ落ち着いてきている。」「できるだけ早く収束することを願っている」とあった。「収束」とは何を言わんとしているのだろうか。早く忘れたいということだろうか。早く幕引きをはかりたいということだろうか。「収束」というような言葉で表されるような場面ではないと思うのは愚輩一人であろうか。


 そもそも商工会議所とは、商工会議所法という法律に基づいて設立されている団体である。その専務ともなれば、もはや公人と同じようなものである。伊東商工会議所のホームページによれば、参加事業所(店)数は約1700だという。この事件の増賄側の会社やその仲介者がいた会社が商工会議所のメンバーか否かは知らないが、一般的に市長と市内の事業所のとの関わりは、薄くはないはずである。


 市長と市内事業者が疎遠では、経済政策上大いに問題である。この汚職事件は、市内事業所と市長との関係についてよく考えなければならない問題でもあるのではないだろうか。そこにも前市長に培養された伊東市の体質があるのではないかと思う。


 そういうことを理解できれば、「できるだけ早く収束することを願っている」というような発言はしないだろうにと愚輩は思う。市長や、観光協会長のコメントに比べてあまりに対照的な、商工会議所専務の発言は、何か深い意味があるのだろうかと考え込んでしまう。


 公人と同じような立場にある人の発言は、すべからく政治性を帯びるのである。故に真実が含まれている場合が少なくない。


14.遠のいたか汚職事件の興味

 佃前市長の汚職事件も興味が遠のきつつあるのだろうか。市井の凡夫には、このまちの体質改善のために小野市長は今何をやっているのか全く伝わってこない。凡夫には、公にされた地元新聞の記事を読むか、市のホームページを見る以外にそういう情報を入手できる手立ては限られる。愚輩如き凡夫にも、今市長が何をやっているのかわかるように、聞かれなくても、市長が進んで毎日でもその情報を提供すべきであると思う。


 どう変わるかわからぬ不可解な外交交渉のやりとりを毎日公開せよというのではない。たかだか七万人にも満たない小さなまちの体質改善をどう始末をつけるのか、進捗状況を毎日公表するだけのことである。難しいことは何も無い。


 汚職の再発防止マニュアルを策定するらしい。そんなマニュアルをつくろうだなんて、誰が考えたのだろうかと考えてみるとおもしろい。興味深いのではなく、笑ってしまうという意味である。きっと、また汚職をやる市長が出てくることを予想しているのだろう。


 しかし考えてみれば、そんな人を市長にしなければいいだけのことではないのかと思う。有権者に、選挙の時はよくよく候補者の人物を見てくださいと、日頃から市長が先頭にたって、有権者の蒙を啓く運動をしておくことの方がよっぽど効果があるのではないかと思う。まあ、普段まじめな人でも魔が差すということもあるから、そういう運動を進めておいた上で、再発防止マニュアルを合わせて活用するのもいいかもしれない。


 ところで、伊東市は大事な案件を決める時には、ボトムアップと言って市民の意見を汲み上げるのではなかったかと記憶している。汚職再発防止マニュアルにしろ、今回の汚職事件の検証にしろ、市長は市民の皆さんどうぞご意見をお寄せくださいと言ったことがあるのだろうか。きっと何度も言ったのだろう。愚輩が見逃してしまったのだろう。こういう案件こそ、「パブリックコメント」を募ればいいのにと思う。これからそうするのかもしれない。


 こんなことがあったのを思い出した。佃前市長がある案件で、先方の代表者と会って交渉した。その交渉記録を情報公開請求しようとしたら、担当部長がこんな趣旨のことを言った。「市長が直接交渉したので、報告する必要がありませんから、記録はつくっていません」と。 

 交渉記録は必ずしも上司に報告するだけのものではなく、部下にも説明するためのものであり、市民に報告するためのものである。その上で、今この記録は公開できませんというものもあるかもしれない。市長たる者は、そういう理念、哲学のもとに己の権限を行使しなければならないと思う。


 小野市長が自分で直接交渉した案件の記録をつくっているかいないか知らないが、体質改善の端緒はこんな簡単なところにもあるかもしれない。


13.失点しているのになぜ攻めない

 過日深夜、サッカーワールドカップの日本の試合を見た。それ以来体調がなかなかもとに戻らない。睡眠不足は、老人の体にはことのほか大きなダメージを与える。そういうことがあるから、昨夜の日本の試合は見ずに早々に寝てしまった。


 女房殿の出勤前の一時に一緒にテレビを見るのが日課となっている。
 女房殿曰く「なんだ(なによ)、日本のあのざま(あの態度)は」昨夜の日本の負け方を言っているのである。
 愚輩曰く「高校生じゃないんだから、彼らはプロだよ。大人は賢しこいんだよ」
 女房殿続いて曰く「そういうもんじゃない。負けてるんだから、なぜ攻めない。負けるにしたって、一所懸命やるその負け方が大事なんだ。それが共感を生むんだ」
 愚輩小さな声で「そうだね。それが日本人だよね。あれじゃあ子どもに見せられないね。頑張れって言えないよね」
 女房殿「そうだ(そうよ)。何をやってるんだ(何をやっているのよ)」
 女房殿「あっ。もうこんな時間。間に合わない」といって飛び出していった。

 女房殿は高校の教師である。高校生じゃないんだからの一言が気に障ったのかもしれない。夫婦の睦まじい会話はともかくとして、昨夜の日本の試合態度は、今の伊東市政の状況に似ているだろうかと思った。試合時間は限られているのに、しかも大きな失点をしているのに、核心に向かって攻め込んで行かず、後ろの方で悠長なパス回しをしているといった具合だ。サッカーと違って決勝リーグなんてありはしない。サッカーファンは、もやもやした試合だったが、決勝リーグに行けてよかったという。伊東市政はゴールにボールを入れなければ、もやもやしたままで、そこで終わりである。


 負けているのに、攻め込まずに後ろでパス回しをしているのは、大人の「ずる賢こさ」故であろうか。「そういうもんじゃない。負けてるんだから、なぜ攻めない。負けるにしたって一所懸命やるその負け方が大事なんだ。それが共感を生むんだ」


12.汚職事件後の「議会の検閲権」

 今朝の地元紙によれば、昨日の伊東市議会議会運営委員会で、前市長汚職事件に端を発して、「特別委員会」を設置することが決まったという。その目的はというと、「土地取得の状況調査と制度改革についての調査研究」だという。前市長在任中の土地取引を検証するという。


 何だよ、「調査研究」ってのは、この特別委員会は勉強会かと思ってしまう。そりゃあ、特別委員会はみんな「○○の調査研究」ということになるかもしれないが、それならそれでネーミングを考えろといいたい。既に当局は、この「特別委員会」と同じようなことをやると言っているではないか。市長(という権力者)の犯罪が発端なんだから、調査研究だといっても、権力者の市長と一緒に、同じことをやってどうするんだと思ってしまう。笑い話かということになる。


 まさか、当局から提供された資料を使って「調査研究」をする訳ではないだろう。市長や関連機関の書類等を検閲したり、請求したり、調査することができる議会の権限を法律に基づいて、行使しするのだろう。市長にこういう資料を欲しいと言うのではなく、全部見せろ、全部出せというべきである。この権限は議員個人にはないから、議会としてスムーズに権限行使ができるように特別委員会を設けたのだろうと思う。


 非公開の庁内幹部会議の議事録や関係職員のPCのデータを全部検閲すべきである。市長が嫌だと言ったら、これが見えぬかといって「地方自治法」と書いた紙を高く掲げるのである。へっへーといって恐れ入るはずである。第一、こういう資料が欲しいといっても、どういう資料があるのか、全部出させなければわからないではないか。


 既に記憶はおぼろげだが、愚輩が議員になりたての頃、地方自治法に基づく、議会の検閲、請求、調査の行使について、その実際の手続きについて、議会事務方と意見交換したことがある。議会としての権限だから、その権限を行使するという議会の意志決定が何らかの形で必要になるだろう、一つの明確な方法は議決ということになるだろうということになった。議員の考えが割れる場合には、多数が確保できなれば議決できないという当たり前の結論になり、具体的な事案がなかったこともあり、話しはそこまでで終わった。


 議会は、いくつかの例外を除いて、地方公共団体の事務に関する書類や計算書を検閲できるのである。この資料がほしいという程度のことなら、条例に基づいて議員個人が「情報公開請求」をすれば十分である。市長と一緒にやってはいけないということの意味がわかっているのだろうかと思ってしまう。そんなこと言ったって、検閲できる能力のある議員が一体何人いると思っているのかと問う人もいるかも知れない。


 ともあれ、議会運営委員会を通ったということは今日の最終本会議で、件の「特別委員会」の設置議案は議決されるだろう。ここに至るまでにはいくつかの意見が出たであろうことは想像はつく。検閲のできる議員の頑張りに期待したい。

特別委員会の設置に反対した会派があったという。この会派は「特別委員会」には入らないだろうから、独自に活動するのだろう。「公共事業入札を広く調査し、政治倫理にまで踏み込む」としている。議会の権限は思うようには使えないだろうが、それはそれで期待したい。

(
 一般論だが)前市長の犯罪とはいえ、場合によっては現市長にも関わってくることだってあるかもしれない。特に前市長の系譜の中にある現市長であれば、あり得ない話しではない。(これも一般論だが)現市長に都合の悪い資料があれば、提供する訳がない。今後、議会が当局に対する検閲、請求、調査の権限をどう効果的、効率的に行使するかということも、この前市長汚職事件後の大きな課題の一つであるはずである。




11.シンギュラーポイントと汚職事件


 「シンギュラーポイント」(singular point)という言葉をはじめて目にしたのは、安岡正篤師の著書である。もうだいぶ以前のことである。そもそもは理工学用語のようだが、人の世にもシンギュラーポイントがあるという。理工系大学を卒業したものの、不出来な学生であったが故にそれまでこの言葉を知らなかった。忘れてしまっていたのかも知れない。


 「シンギュラーポイント」は、特異点、転換点などの意味だと理解しているが、社会が劇的に変化するときのその分岐点というほどの意味である。だから、誰でもが使う今はやりの「改革」という言葉でいわれるような、その特異点がどこにあるのかわからぬような、また変化したのかどうかもわからぬような緩慢な社会的変化では、シンギュラーポイントという言葉は使われない。


 シンギュラーポイントの前後では劇的に変化するので、事前にシンギュラーポイントを予測するのは難しいかもしれぬ。また、社会の変化を予測できればシンギュラーポインという言い方はする必要はないかもしれぬ。歴史を振り返って、あの時がシンギュラーポイントだったと分析するのは、学術や評論には大事であろうが、今この時がシンギュラーポイントだと認識することは、進行中の社会の有り様を現実に大きく左右する。


 佃前伊東市長の汚職事件は、田舎町には前代未聞の大きな事件なのだが、これは、単なる一個人の事件としてその内に忘れ去られてしまうのであろうか。それとも、この地域社会のシンギュラーポイントとなるのであろうか。事件報道を見て、口に出すか出さぬかはともかくとして、「やっぱりか」と思う人が多いのであれば、事件は予測されたことでもあると言えるから、シンギュラーポイントにはなり得ず、事件の後でも地域社会総体としてはあまり変化が起こらぬかもしれぬ。


 シンギュラーポイントのきっかけとなるのは、自然発生的な事象とばかりは限らない。戦争の前後では社会が大きく変化する。特に負けた側の国ではその変位は極めて大きい。戦争の結末は最も顕著なシンギュラーポイントのきっかけである。戦争は人が始めるものだから、結局のところ、シンギュラーポイントを形成するのは人の意識だといってもいい。


 シンギュラーポイントを形成するのは人の意識であり、今この時がシンギュラーポイントだと認識するのも人だとすれば、伊東市の今回の汚職事件に関する社会的な答えは自ずと出てこようというものである。しかし、その意識、認識がこの汚職事件に拘泥してしまっては、シンギュラーポイントにはなり得ないだろうと思っている。


10.空耳か「三文芝居はやめろ」の声

 開催中の伊東市議会6月定例会のネット公開が始まったので早速に見た。新聞では、6月18日の議会冒頭で、佃前市長の汚職事件について、小野市長が陳謝したという記事を読んでいたので、18日の議会の様子を見た。


 市長の登壇があり、陳謝して頭を下げるとき、議場の当局席に座っている幹部職員30人くらいが全員起立して市長の低頭に合わせて一斉に頭を下げた。この間約10秒間。黙祷ではないのだから、10秒の低頭はかなり長い。この時、画面には映っていなかったが、「三文芝居はやめろ」といういう大きな声が聞こえた。議員の誰かが言ったのだろうか。傍聴者の誰かが言ったのだろうか。しかし、議場はざわつく様子も見せず、整然と進行していった。


 何度か同じ場面をくり返して見たが、その次からはあの大きな声は聞こえなくなった。同じ映像を見ているのに、はじめて見た時だけ聞こえたのだろうか。何とも不思議なことである。あれは空耳だったのだろうか。誰も何も言わなかったのだろうか。愚輩にも「三文芝居」に見えたのだが。

 さて、佃前市長の汚職事件が発覚し、本人が司直の手に落ちてから数日が経った。釈放されたという話は聞かないし、送検されたという新聞記事もある。取材に来た警視庁詰めの記者さんに、嫌疑不十分で釈放されることもあるからねと言ったら、「サンズイ」は、公表する時点で警察、検察と綿密な打合せをやっている、上の方から余程大きな政治的な圧力がかかることもあるが、普通は九九パーセントアウツだろうと教えてくれた。「サンズイ」って何だと聞いたら、「汚職」の「汚」のサンズイだと教えてくれた。汚職事件の顛末は司直による解明、分析を待つ以外にはない。


 小野市長は、この汚職事件について、6月17日に、「誠意をもって行政運営を進め、一刻も早く市民の皆様の信頼を回復できますよう、職員一丸となって取り組む所存でございます」とホームページに発表した。「誠意をもって」というが、単なる慣用句として使っているなら、この場合は大間違いである。「大学」の八条目に「格物、致知、誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下」とある。この汚職事件が、伊東市の平安に関わる事件だと理解すれば、「誠意」と言う言葉は、八条目の文脈の中で理解すべきである。特に大事なことは、「格物致知」である。


 愚輩なりに、陽明学的な解釈を試みれば、「格物致知」とは、よくよく汚職事件が起きた本質を「良知」をもって考察して、その核心に至り、これをたださなくてはならないということである。


 「誠意」を示すのは、誰あろうまずは権力を持つ立場に居る小野市長ご自身であることは言うまでもない。ホームページ掲載のとおりである。八条目の文脈から言えば、「格物致知」もまずは小野市長ご自身がなすべきことであるのは言うまでもない。


 「一刻も早く」と言う割には、スピード感が感じられない。恐らく、職員一丸となり、不眠不休、休日返上で頑張ってるのだろうから、その割には、今何をやっているのか、スケジュールはどうなっているかなどが何も伝わってこない。聞けば教えてくれるかも知れないが、今はそういう場面ではない。


 「市民の信頼回復」は、市長を批判的に見る善良な市民に目標を置かねばならないのは当然である。市長
を積極的に支持し、ある程度大目に見てくれそうな善良な市民を目標に置いては、信頼回復は中途半端に終わる。


 「三文芝居はやめろ」という大きな声は愚輩の空耳だったかも知れない。三文芝居か否かはともかくとして、この汚職事件が公にされてからの当局の言動には、「誠意」とか「矜持」のその「強さ」が感じられない。


9.病重くとも幕舎から出でよ「諸葛亮孔明」

 人の噂も七五日という。雑多でおもしろい情報があふれかえっている現代では、噂の主役が入れ替わるのも早い。主役の入れ替わりに七五日も要しはしないだろう。佃前伊東市長の汚職事件の報道も既にピークは過ぎている。報道のピークが過ぎれば世の関心がなくなるのは当然である。伊東市民でさえ次第に関心は薄れていくこともまた明白であろう。あるいは、この汚職事件に慣れてしまうに至るもまた明白であろう。関心は薄く慣れの日常からは変革のエネルギーは生まれてこない。道理である。この汚職事件で、直接間接に自分に累が及ぶことを恐れる者は、世評を気にしつつ早い幕引きを望む。あるいは画策する。


 佃前伊東市長の汚職事件が発覚した伊東市は、千八百年前の彼の国とはその構図が異なるとはいえ、「馬謖」に国禁を犯した佃前市長を、「蜀」に伊東市をなぞらえれば、符合するすることも少なくない。いやいやそうではないかもしれぬ。「馬謖」に国禁を犯した佃前市長に培養された伊東市の体質を、「蜀」に伊東市を、そして「諸葛亮孔明」に伊東市民をなぞらえれば、ほとんどぴたりと符合するではないか。


 自分でそう思って市長になれる人は一人もいない。投票動機はどうであれ、有権者の一票が市長を誕生させるのである。軍律を犯したとはいえ、馬謖は孔明が育てた弟子である。孔明の分身かもしれぬ。「蜀」を安泰に導くには、泣きながらでも「馬謖」を斬らねばならぬのである。その病重くとも、今こそ幕舎から出でよ「諸葛亮孔明」


 わざわざ「三国志」を持ち出したのには訳がある。愚輩まだ四十代で議員になりたての頃である。「五丈原の戦い」を発端にして、伊東市政と諸葛亮孔明について、日が落ちお互いの顔が見えなくなるまで議員控え室で語り合った、今は亡き若き市議会議員のことが思い出されたからである。


 彼の属する政党は、市長与党(佃市長の前の市長)とされていたが、時の市長に抗して、その政党に属する他の議員と共に「伊東市自治基本条例」を愚輩たちと一緒に議員発議した同志であった。

時は既に二十年近くも過ぎてしまったが、今市長与党と目される議員の中に、市長に抗するほどの気概のある人のありやなしや。


 千八百年も昔の彼の国でのこと。軍律を犯し、しかも敗軍の将となった「馬謖(ばしょく)」は、「諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)」に斬られる。孔明は、総帥として涙を流して愛弟子馬謖を斬る。馬謖の心中、孔明の心中如何ばかりかと慮る。孔明が愛弟子たる馬謖を斬らざるを得なかったのは何のためか。軍律を守らんがためである、公正な秩序を維持せんがためである。公正な秩序を維持せんとするのは何のためか。強力な軍隊を維持せんがためであり、「蜀(しょく)」一国の安泰を図らんがためである。公正な秩序の維持はかくも非情であり、このためにこそ強力なリーダーシップが要求される。


8.「土地取引の検証」と「再発防止マニュアルの策定」


 今日(6/19)の静岡新聞夕刊に、佃前伊東市長の汚職事件に関して、今日の市議会において、若山副市長が佃前市長が在任中の「土地取引」について検証する考えを示したとあった。再発防止マニュアルもつくるという。


 この期に及んで何を馬鹿なことを言っているのかと思ってしまう。なぜ「土地取引」だけなのか。細々としたことも含めて、佃前市長在任中の全ての事業を洗い出さなくてどうするというのか。きっと、土地取引よりも大きな金が動く「工事発注」は何も検証しないつもりなのだろう。事は、佃前市長が培養した市政の体質のことだというのに、そんな簡単なことにどうして気がつかないのだろうかと思う。


 汚職事件が起こった後に、内部で検証するというのは、後付けのアリバイで終わることが多い。ここは、真に検証する場面である。全てのことを検証したら何もありませんでしたと言うわけにはいかないこともある。佃前市長の汚職に荷担するか、知っていた職員がいたら、その職員を差し出さなければならない。そうなれば、当事者はもちろん幹部級職員は責任をとらなければならない。そういう覚悟のもとに検証すべきである。


 再発防止マニュアルをつくってどうするとういうのだろうか。意味不明である。市長の汚職が問題になっているのだから、現役市長がそんなことはしませんと宣言し、(汚職はしませんという宣言もおかしなことだが)どうぞ私の過去についても身体検査をして下さいと言えば済む話ではないか。再発防止とは、また現役市長が汚職をする可能性があるとでも言いたいのだろうか。


 開会中の市議会で副市長が発言したという新聞記事だが、名誉挽回をはかると宣言した市議会は、まさかそんな「検証」や「再発防止マニュアルの策定」をのむ訳はないだろう。


7.市議会の名誉挽回とは

 長たる人の発言は、それが公的場面でなされた場合は特に大事である。その人個人の発言であったとしても、普通はその組織全体の意思とみられてしまう。重大な事件に関して発言する場合は、迅速にして細心の注意が必要となる。

昨日(六月一八日)、市議会において、市長と市議会議長から発言があったという。映像は見ていないが、静岡新聞の夕刊(一八日)に、発言内容の掲載があった。市議会議長は、「前代未聞の事態で市にとって大きな痛手。小野市長とともに名誉挽回に努める」と述べたという。新聞記事だから要約されているだろう。


 このまちの議員を経験した者として、直感的に「なぜ市長を引き合いに出すのだろう」と思った。「市議会として名誉挽回に努める」と宣言すればよいのではないかと思った。市長の汚職事件について、市長のチェック機関として、警察より先に発見できなかった議会の不名誉を恥じているわけだから、これからも市長と共にやっていたら議会の名誉を回復できるわけがない。これまで、市長とともにやってきたから不名誉な事態になったのではないのかと思う。


 「市議会として名誉挽回に努める」の後には、「佃市政の過去の十二年間を全て洗い出します。議会としてこれまで以上に市長とは一線を画し、小野市長についても一層厳しい態度で臨みます」と言うべき場面ではないかと思う。


 「名誉挽回に努めます」程度の美辞麗句で始末できることではないことにどうして気がつかないのだろうかと思ってしまう。(一般論として)市長の犯罪を見逃さないために、議会は、小野市長の県会議員時代のことも洗い出さなけれならないのは当然である。「名誉挽回」の意味がどこまでわかって言っているのだろうかと思ってしまう。


 今こそ、議会も市長も「特別顧問」を復活させるべきではないか。議会の名誉回復のための「特命特別顧問」を外部から招聘すべきではないかと思う。そこまで言うならお前がやってみろと言う人がいるかも知れない。愚輩は議員として佃市政と重なる期間がある。人一倍佃市長には厳しい態度であったとは思うものの、警察より先に疑惑の確証を発見することはできなかった。悲しいかな、すねに傷を持つ身である。


6.腹のくくり方

 やくざ映画では、親分を守るために子分が命を懸ける。納得づくで親分の罪を子分が被ることもある。親分は、「あいつがやったことだ、俺は知らなかった」という。子分はといえば、「へい、あっしがやりました」という。親分のやったことに「あっしにゃあ関係ありません」と言う子分のことはあまり聞かない。子の親への忠誠心の高さはこの上もない。義侠の鑑である。世の理不尽はここに極まる。


 政治家の世界もやくざと同じだといわれることがある。本当にそうかどうかは実のところよくわからない。やくざ映画は知っていても、本物のやくざの世界のことは知らないし、田舎町の議員であったことはあるものの、政治家で親分子分の杯を交わしたことはない。親分なしの子分なしである。


 佃前伊東市長の収賄罪逮捕は連日全国紙で報道され、テレビでも繰り返し放映されている。昨日の現職の小野伊東市長の記者会見の様子が地元紙にも載った。その中で「同じ政党であり、親しく付き合っていた。政治家としては素晴らしいと思っていた。疑いを持たれ、容疑者となったことで、私の知らない一面もあったのかなと感じている」と小野市長は言ったという。


 私は関係ありませんと言って、よそよそしいことこの上もない。そう見えてしまう。この記事を見た人の中には、「私の知らない一面もあったのかなと感じているとは、何を言ってやあがる」と思う人もいるのではないかと思う。この事件そのものには現職市長は関係ないかも知れないが、これを個別の限定された事件として始末しようとするのではなく、特に佃前市長の後継者なのだろうから、ここは、我がこととして、市政の体質改善に邁進すべきである。


 同じ記事の中で、小野市長の発言として、「何が何でも再発は防止しなければならない。しっかり原因を究明し、改善すべき点があれば考えていきたい」とあった。最後の「考えていきたい」は「速やかに改善していく」の誤りだが、それはともかくとして、この発言の前段で、「個人的に行政と関係ないところで動きがあった」と言っている。


 要は、佃一人がやったことだといっているのだが、この考え方では、市長以外の行政には、今回の事件の原因はないと言っていることになる。しかし、それではこれから原因を究明する必要も再発防止の必要もないし、改善点もないことになる。「何が何でも再発は防止しなければならない」のなら、現職の小野市長が個人的に前佃市長のようにしなければよいだけのことである。発言が矛盾してしまう。


 発言の矛盾は置くとして。考えてもみよ、市長たる者は行政の中枢ではないか。地方公共団体を代表する者ではないか。予算編成権も執行権限も持つ市長を除いた行政などはどこにも存在しないのである。しかも市長の地位を利用して公金を着服した容疑なのである。「個人的に行政と関係ないところで動きがあった」などとはどこから出てくる言葉かと思ってしまう。


 義侠の鑑たるべしなどと思っている訳ではないが、前市長の窮地に際して、政治的身内の中には、「私の知らない一面もあったのかなと感じているとは、何を言ってやあがる」と思っている人もいるのではないかと思う。「私の知らない一面もあったのかなと感じている」とか「個人的に行政と関係ないところで動きがあった」などという記事を記者に書かせるような言い方をすべきではない。


 数日前の新聞記事に、今回の事件に関して、「さまざまな実績を残しており、立派な政治家だと思う」という小野市長のコメントが載った。逮捕前ではあったが、こういう発言をすると言うことは、小野市長は腹をくくったに違いないと思ったのだが、腹のくくりがまだできていないように見える。


5.佃前伊東市長の収賄罪逮捕に思う

 昨夜、佃前伊東市長が収賄罪容疑で警視庁に逮捕された。同時に贈賄側と贈収賄を仲介した者も逮捕された。司直の手に落ちたからには、その犯罪の確定は捜査と裁判に委ねる他はない。世の中には、嫌疑不十分や冤罪ということもある。犯罪の確定はまだだとはいえ、現役政治家はもちろんのこと政治家であった人は、「あの人に限って、まさか」と思われるか「やっぱりな、やりそうなことだ」と思われるかでは、雲泥の差がある。


 今回の逮捕は、政治権力の行使そのものに関わる犯罪容疑であれば、しかも、大義もなく、過失でさえもなく、私腹を肥さんがための容疑であれば、どう思われるかは、市議会議員、県議会議員、市長の経歴を持つ人の政治家としての評価そのものである。前市長は実績を残したと言う人もいるが、逮捕されてどう思われるかは大きな実績の内である。

 
 「佃前伊東市長」の部分を自身に置き換えて考えてみると、元議員であった己の評価がわかるというものである。どう思われるだろうか。また、色んな人に置き換えてみても興味深い。どう思われるだろうか。まあ、人のことはともかくとして、愚輩などが逮捕されたところで「知らないな、誰だそれは」と思われるのが関の山である。


 数日前、伊東のまちを歩いている時、道で知人と挨拶を交わした。「宇佐美は大変だね、どっちも宇佐美じゃないか。あんたがしっかりしないからだよ。はっはっは。」冗談かもしれいないしそうでないかもしれない。同じ仲間だと思われている訳ではないだろうが、愚輩も直接批判されたのである。即答しようもなく、申し訳ありませんと思うしかない。


 逮捕者個人のことで収まる訳はないのである。「伊東というところは」「伊東の政治というのは」「伊東の政治家というのは」と思われるのはわかっている。合わせて、「宇佐美というところは」と言われているに違いない。収賄側も宇佐美、贈賄側も宇佐美である。


 犯罪捜査のことは司直に任せて、宇佐美の住人でもある現職市長には、きっちりこの始末をつけてもらわなくてはならない。愚輩がしっかりしていないこともあるかもしれないが、これからの現職市長の責任は重い。「実績があり立派な政治家だ」とか「遺憾」だとか「前市長の個人的な問題と割り切って考えたい」とか言って始末がつけられるような事件ではない。


4.新聞の市長コメントに思う

 愚輩如き市井の凡夫が何を言ったところで、ほとんどの人は気にも留めないし、言い方を間違えようとも、言うべき時に言わず、黙すべき時に言ったとしても気がつかない。まして、愚輩の行間を読み解く人は、仮に居たとしても、余程の暇人か愚輩に興味のある人くらいである。


 市井の凡夫のことはともかくとして、人の長たる立場に立つ人の発言は誰しも注目する。それがたった一言であっても、どういう場面で、どういう言い方をするかによって大きな意味を持つことがある。短い言葉であれば、聞いた人は余すところなく行間を読み解こうとする。その発言によって、集団の性質や方向性が決まることがあるが故である。

六月一四日の中日新聞の夕刊(ネット板)に、前伊東市長の収賄罪容疑の報道に関する取材に答える現小野伊東市長のコメントがあった。曰く「二〇二〇年の東京五輪・パラリンピック対策をお願いするために特別顧問に就いてもらった。さまざまな実績を残しており、立派な政治家だと思う」と。


 短いコメントだから、新聞記事とはいえ、行間を読まざるを得ない。警察が逮捕状をとり本格捜査に乗り出すと言われた人物を、この場面で「立派な政治家だ」と言うには、相当に腹をくくっていることになる。普通は、そう思っていても、現職の市長としてはこの場面で、報道の前で、そういう言い方はしなだろうと愚輩などは思ってしまう。もっとも、新聞記事は記者が書くものだから、小野市長の発言の意図と百パーセント同じではないかもしれない。


 「立派な政治家」だと思うことが悪いわけではない。本当にそう思っているのだろう。この場面で、積極的に評価しているのだから、実際に逮捕され、有罪になったとしてもその評価は変わらないということを宣言したということでもある。冤罪だと考えているのかも知れない。それはそれで一つの矜持であると思う。

だいぶ昔のことになるが、当時の田中角栄総理大臣は、外国から数億円もらったとして大きな事件になり、結局有罪の判決が下された。外国の陰謀や権力闘争なども絡んでいたともいわれ、単に私服を肥やした訳ではないといわれることもある。また、予て愚輩がかくありたい思っている斉藤隆夫代議士は、東條内閣に抗して議員を除名された。議員除名は不名誉の極みである。


 前伊東市長の収賄容疑は、田中角栄や斎藤隆夫のように、そこには個人的ではない、なにがしかの事情を垣間見ることも、体制に抗してもなお貫くほどの大義も見られない。もし、今回のことに関して、田中角栄や斎藤隆夫に比すべきものがあれば、是非早い内にご自身で開陳してほしいと願うものである。


 新聞記事からは、小野市長は腹をくくって、もしもの場合はご自身も何らかの責任を感じるつもりでいると見たがどうだろうか。もしもの場合に「残念です」などというコメントで済ませるなら「立派な政治家だ」などとは言わないはずである。


 市井の凡夫が行間を読んだところで、うまく読み解くことはできない。行間には何もないこともある。


3.任務の続き

 前伊東市長の佃弘巳氏の公共用地取得に係る収賄容疑の報道が昨日から出ているが、時間が経つに従って、新聞に加えて全国テレビのニュースでも報じられるようになった。その内容も次第に詳しくなってきたように見える。逮捕状が出たとの報道もある。


 今回新聞記事になったこと以外にも、風聞としては知らぬ訳ではないが、誰かが意図的に流したものかもしれない。そういうことは往々にしてあり得る。当時の愚輩が知る限りでは風聞の域を出ていない。


 元議員となってから、ある機関から、議員の時に反対した大きな公共事業の入札に関して教えを乞いたいという依頼があった。議会の議事録で森議員の発言を読んだので、ということだった。そう言われても議場で発言したこと以外には知る訳もない。一般的な公共事業の発注について、経験から愚輩が思うところを話したことがある。その後この件で何かの進展あったとは聞いていない。


 今日の静岡新聞夕刊の記事によれば、現市長は、「逮捕に至っていないのでコメントは控えるが捜査には協力していく」と言ったという。逮捕状が出たとの報道もあることから、すぐに逮捕されるかも知れないというのに、逮捕されたら何とコメントするんだろうと心配になる。逮捕されなくてもいいから、市長が知っていること、思っていることの要点を市民に向かって話すべきではないかと思う。


 かく言う愚輩は、考えてみれば大層なことを言えるような立場ではないかもしれない。結果として議員の任務を十分に果たし得なかったこと、己の能力の低かりしことをあらためて思う。また、こういう状況に至ったことに胸が痛む。
それなら黙っていろと言われるかも知れない。そうかもしれないが、今発言することも任務の続きだとも思っている。


2.組織防衛と市長

 日大は、マメフトの危険タックルから端を発して、今や大学そのものの危機管理能力が問われる事態に発展してしまった。揶揄されて曰く。「日大には最近危機管理学部ができたそうだが、この日大の危機をどう管理するのだろうか」と。


 伊東市の前市長が収賄罪の疑いで警察捜査が行われるという新聞記事がでた。市長がセクハラをしたというような個人的な疑惑ではない。1000万円もの公金が当時の市長の懐に入ったかもしれないという、極めて不名誉な記事が掲載されることは、自治体の危機となる大事件である。


 伊東市には最近「危機管理部」ができた。課から昇格して部になったものである。「伊東市はこの自治体の危機をどう管理するのだろうか」と揶揄されるだろう。


 テレビニースはいつが最初かわからないが、新聞は昨日の夕刊が最初かも知れない。現伊東市長、現伊東市議会議
長は、自治体の危機に際して、どう管理するつもりなのか問われる場面である。情報がありませんなどと言って、対応が遅れれば日大批判の二の舞いになることは歴然である。


 まず、速やかにしっかりとしたコメントを出すべきである。今回の記事は、責任は前市長の個人的なこととして始末をつけて、組織防衛ができるような状況ではない。危機管理部をつくるほど日頃自治体の危機管理に特段の意識があれば、予期せぬことが起こっても即応できるはずである。もっとも私が知らないだけで、市長も議長もすでにコメントを出しているかもしれない。

 
 愚輩が市長ならどうコメントするか。例えばの話しである。「今回の新聞記事に関しては市民の皆さんに大変なご迷惑をおかしていることと思います。公金が不正に使われたかもしれないということ、当時の伊東市長に収賄の疑いがかかっていることなどから、警察の捜査はこれから本格化すると聞いています。警察によってこうした疑いがもたれ、大きく報道されたということは伊東市の危機であると認識しております」


 「佃氏に対しては、速やかに会見を開くなどし、ご自身の口から身の潔白を説明していただきたい旨、既に連絡を取っているところです。また、市役所職員には、既に必要なヒアリングを始めているところです。今後、事実の解明につきまして、市としてその都度ご報告申し上げます」


 「私が陣頭に立って伊東市の危機に立ち向かう所存であります。市民の皆様におかれまして、何卒平穏を保たれますようお願い申し上げます」  

 それでは不充分だとの声が聞こえてくる。


1.前伊東市長1000万円収賄の新聞記事

 前伊東市長の佃弘巳氏が、市が購入した土地に関して、1000万円の収賄があった疑いがあり、警視庁が捜査に乗り出す方針である旨の新聞記事が出た。しかも、組織犯罪処罰法違反で、警視庁が関係者を摘発する中で前伊東市長の名前が出てきたという記事である。
単純な贈収賄事件ではない。暴力団との関わりということになる。


 この記事は、新聞社の警視庁への取材で明らかになったということだが、この数ヶ月の間に、複数の新聞社から、愚輩に取材があった。なぜ、現役議員でもない愚輩に取材に来たのかと聞いたら、この土地購入予算に係る本会議場の森議員の発言の議事録を読んだからだという。


 特別重大な発言をしている訳でもなく、ごく普通の議案審議の発言をしているだけだと思うのだが、記者さんが愚輩の議会発言をどう読み解いたかは知らないが、発言した以外に特別な情報を持っていたはずもない。元議員のところに取材に来るくらいだから、現役議員の皆さんのところにも取材があったのかもしれない。


 採決では、愚輩はこの予算には賛成したのだが、当時、今回の記事にあったような市長の収賄に関する確たる情報を得ていれば、議会での発言も違っていたし、予算に賛成する訳はない。もっとも、1000万円の収受は、成功の見返りともとれる記事内容だから、実際の収受は予算が議会を通過したあとのことかも知れない。


 いずれにせよ、この土地購入の予算に賛成したことは、当時の状況はどうであれ、結果として責任を感じざるをえない。当時の議会は何故その予算を通したのかという批判が出ても当然である。政策論争ならいざ知らず、こういう類いのことは、仮に風聞は耳にしたとしても、公の場で取り上げるにはそれなりの確証が必要になる。それでもなお、議員として、情報収集に怠たりはなかったか、ということになる。


 常々、議会においては、ある議案に賛成しようが反対しようが、議員は一蓮托生、同じ穴の貉(むじな)だとの覚悟が必要だと思ってきた。振り返ってみれば、愚輩にはその覚悟がまだ足りなかったのかもしれない。一方で、お前も収賄をするような市長と同じ仲間かと見られることがあれば心外の極みでもある。


 警視庁が新聞にリークするには、既になにがしかの動かぬ証拠を握っていると言うことかも知れない。警察の捜査が入っているのであれば、議会がこのことをすぐに取り上げるのは簡単ではないかも知れない。しかし、予算を通した議会の責任として、百条委員会あるいや特別委員会の設置などにより、自治体としてしっかり始末をつけてほしいと切に願うものである。1000万円もの税金が違法に市長の懐に入っていたかもしれないという重大事案である。


 警察捜査の進展によって、真偽も含めて今後どうなるかはわからないが、こういう伊東市にとって極めて不名誉な新聞記事が出ることは慚愧に堪えない。あの伊東市かと言われることにつながる。昨今危機管理能力が問われる出来事がいくつか取りざたされている。後手に回って批判の拡大再生産とならぬようにしなければならないと思う。


 もし、愚輩が当時の市長だったらどうするだろうかと考える。既に新聞に出たからには、早々に記者会見を開いて身の潔白を主張し、できれば1000万円を送ったとされる側にも同席してもらい、合わせて、これは警察の捏造だと主張し、伊東市の名誉のためにも徹底的に戦うと世間に向けてアピールするだろう。そんなことはないのだから当然である。